泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

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話なんて、まとまらないほうがいい

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世の中には「話をまとめたがる人」と、「話を広げたがる人」がいる。

一般には、「聴いた話を簡潔にまとめる能力」を「頭の良さ」だと捉えている人が多いのではないか。たとえば、スタンダードな大学受験などで求められる能力というのがまさにこれで、800字の文章を読み、その「言いたいこと」を20字でまとめる能力が求められる。

しかしだとすると、その問題本文の800字を書いた著者は、なぜ800字も使って、たった20字で済む内容をわざわざ書いたのか。単なる原稿料欲しさの水増しか、不要な知識ひけらかしの衒学趣味か、あるいは20字で答えられる解答者よりも遥かに日本語能力が低いというのか。

当たり前の話だが、一定以上の言語能力を持った人が文章を書いた場合、800字で書かれた文章は、「最低800字」ないと書けない内容だから800字書いているのである。それを20字にまとめるとなると、カラー原稿を白黒でスキャンするような、大雑把な作業になる。

そもそも「話をまとめる能力」というのは、単に受け手の「時短」のために存在しているにすぎない。800字で書いたものを、800字読む時間がない人のために、20字で伝える。そういう「時短文化」がたびたび致命的な誤解を生んでいるのは、ご承知の通りである。

800字で書かれたものを、そのまま800字で受け止めるのが真の「読解力」であって、それをたった20字で本当に理解できるとしたら、ほとんど超能力である。

20字で書かれた内容が、800字で書かれたものの1/40の薄さである、と言っているのではない。800字で書かれたものは800字向けの内容を持っていて、20字で書かれたものは20字に最適化された内容を持っているというだけだ。物事のサイズには、基本的にその大きさを選び取った必然性がある。800字で書かれた内容は、単純に20字というサイズには向いていないのである。

だからといってこれは、「800字で書いた原稿を600字に削れと言われてムカついた話」などではけっしてない。文章を書いていて、推敲時に自ら文字数をごっそり削ることは、むしろ頻繁にある。ただしそういった文字数の減量作業をする中で毎度痛感するのは、文字数を変えれば、内容も確実に変化するということだ。

文字数を1割減らすということは、本来2回転半すべきだった議論を、2回転ジャストで終わらせることになるかもしれない。あるいはその2回転半のスピードを上げることで回転数を保つ代わりに、回転の美しさが損なわれるかもしれない。もちろん、「そのスピード感が欲しかった」という場合には、減らすことがプラスに機能することもある。

いずれにしろ、内容が100%そのままの状態で縮小される、ということはあり得ない。それが可能だと考えているとしたら、それは単なる思い上がりでしかない。

それに比べると、「話を広げたがる人」のほうがよほど興味深い。「話が脱線すると迷惑」などという人がいるが、そういう人に限って、そもそもそれまでしていた話の「本線」自体が、わかりきったことをわかった風にまとめただけの、所詮たいした話ではないことが多い。もしも相手が話を頻繁に脱線させるとしたら、それは自分が嬉々として語っていた「本線」がつまらないから、という可能性だってある。

人間が内容的に「まとまったもの」しか摂取できなくなってきているとしたら、それは明らかな「劣化」と見るべきだろう。「話をまとめたがる人」が多いのはおそらく、「まとまった話を聴きたがる人」が多いせいでもある。あるいはむしろ、「話をまとめることしかできない人」が多いのか。

広げた先には可能性が広がっているが、まとめた先には終わりしかない。

――と、ここで格好つけてまとまった感じを出してしまうと、このように文章は終わる。

「部屋とYシャツと私」を超える最強のトライアングルを考えてみる

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タイトルが秀逸な曲といば、真っ先に挙がるのが平松愛理の名曲「部屋とYシャツと私」。このタイトルが何を意味するのか、そんな中身の話は置いといて。

「なんとなく世界観が感じられて、響きが良い」。曲名というのはもしかすると、それだけで充分なんじゃないか。そしてこの曲名のように、何かしら「三つの言葉」を並べさえすれば、安易に何らかの世界観を提示することができるのではないか。

というわけで、音楽の最も手前にある浅瀬の部分…よりもさらに手前の砂浜に埋められている人、くらいの気分で(気分が不明)、「部屋とYシャツと私」のようなトライアングルを考えてみたい。

まずは曲名である以上、万人の共感を呼ぶのが理想だ。ならば「共感」だけにフォーカスして、こんな三者を召喚してみる。

「桜と大丈夫とありがとう」

完全に共感狙いの、J-POP頻出フレーズを単に三つ並べてみた。企画書的には300万枚の売り上げは堅いが、実際には路上ミュージシャンで終わるだろう。それぞれのワードが普遍的すぎて、これではまったく世界観が立ち上がらないのである。

「世界観」というやつは、どうやらその「とんでもない広さ」をイメージさせる「世界」という言葉に反して、「ある程度範囲を限定したところ」にしか醸成されないらしい。それは「箱庭感」と言い替えたほうがいいものなのかもしれない。

ではもうひとまわり、世界を狭めてみる。

「昇降口と掃除ロッカーと百葉箱」

言うまでもなく設定は「学校」である。基本的に学校でしか見かけることのないもの、もしくは学校でしかそういう呼ばれかたをされないもの三選。

昇降口で出逢って、掃除ロッカーで恋に落ちて、百葉箱でキスをする…。これはきっと、そんな学園ラブソングに違いない。モップのように痩せているか、エスパー伊東のような折りたたみ式の肉体構造を持った二人の恋物語。全然共感できないではないか。

しかし「その世界でしか見られないもの」を三つ並べることで、受け手に限定された世界観を思い描かせるという手法は使える。ならばその方法で、世界観を二次元に落とし込んでみる。

「変電所と桑畑と三角点」

二次元というのは漫画やアニメという意味ではなく、文字通りの「二次元=平面」、つまりこの世界を平面化してみせた「地図」という意味である。この三つは多くの人にとって、「地図記号でしか認識したことがない場所」なのではないだろうか。

変電所マニアはまだいそうだし、桑畑はわざわざ桑を記号として独立させる必要を今どき感じないが存在はわかる。しかしそれどころではない「三角点」の意味のわからなさはどうだ。

とはいえいずれも、わざわざカーナビで目的地指定してまで行くような場所ではない、という点においては共通している。つまり「認識外である」という意味でこれらは、その人にとって「地図上にしか存在しない場所」なのである。

そう考えてみると、突如としてファンタジックな世界観が立ち上がりはしないだろうか。変電所で出逢い、桑畑で恋に落ち、三角点でキスをする。尾崎豊の「十七歳の地図」とか、たぶんそういう歌だろう。

しかしこの場合、「登場する三つのワード間のつながりが弱い」という部分に、まだまだ不満が残る。地図記号であるという共通点はあるものの、「変電所」と「桑畑」と「三角点」の間に、直接のつながりは感じられない。

できれば題名に登場する三つの単語の間には、強い絆を求めたい。そうなってくると、こういう案がどこからともなく浮上してくる。

「志乃とねじねじと彬」

志乃と彬が、ねじねじによってタイトに結ばれている――これは完璧なラブソングの予感がする。言葉のリズム的にも、ほぼ「部屋とYシャツと私」と同じである。しかもYシャツとねじねじは位置的に非常に近いというか、同じようなものだと言ってしまいたい(全然違う)。

だがそこまで来ると今度は、少し本家の「部屋とYシャツと私」に世界観が似すぎているのが気になってくる(全然似ていない)。志乃が彬に《毒入りスープで一緒にいこう》と歌っても、あまり違和感がないような気もする。

それにこのコラムのタイトルはあくまでも、「最強のトライアングルを考えてみる」だったことをいま急に思い出した。なぜそんなタイトルにしたのか。そうなると武器がねじねじでは、まったく勝てる気がしない。志乃の戦闘力も、あまり期待はできないだろう。

最終的に「強さ」という観点も盛り込むとなると、もうこれしかないかもしれない。後半二つの単語は一人の名前がまっぷたつに分断されているため、実質的には全部で二語だが、そのぶん絆が強いと考えれば良い。

「八名と丹古母と鬼馬二」

泣く子も黙る悪役商会である。「八名」はもちろん「はちめい」ではなく「やな」。「はちめい」でも、それはそれで人数的に強いが。

難点は、異様に判読困難であるということだけだ。血の臭いしかしない。

人の心がわかりすぎるということ~『播磨灘物語』/司馬遼太郎

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昨年の大河ドラマ軍師官兵衛』を観るにあたり、僕は黒田官兵衛の生涯を描いた司馬遼太郎の『播磨灘物語』を読み返していた。学生時代に読んだときよりも、遥かに言葉が染み渡ってくる。名作の持つ意味は、読む側の経験や成長によって如実に変化する。だから読書において「再読」というのは、欠かせない手順である。

「洞察力の人」黒田官兵衛を「洞察力の人」司馬遼太郎が描いたとき、そこからは人間の本質が見事に浮かび上がってくる。僕は『播磨灘物語』を読みながら、人間を、人の世を恐ろしく的確に言い表すフレーズの数々を、メモに記した。ここにその一部を紹介したい。必ずや心に刺さるフレーズがあると思う。

《人の心がわかりすぎるほどにわかるというのは、官兵衛のうまれつきの長技であったかもしれない。この資質は官兵衛の生涯を決定したほどに重要なものであったが、しかしわかりすぎるということが常に官兵衛を利したわけではなく、一面官兵衛の人間と生涯を小さくしてしまう役割もはたしたかもしれなかった》(司馬遼太郎播磨灘物語』)

いろんな人の心がわかりすぎると、全方位的に気を遣わなければならなくなり、思い切って動けなくなる。世の中に真の意味での「Win-Winの関係」などあり得ず、その裏には必ず「Loser」がいる。長所と短所は同じ箇所の裏返しだとよく言われるが、まさに。しかしだからといって、人の心がわからない人間になりたいとは、微塵も思わない。

《官兵衛は、自分自身に対してつめたい男だった。これが官兵衛の生涯にふしぎな魅力をもたせる色調になっているが、ときにはかれの欠点にもなった。かれほど自分自身が見えた男はなく、反面、見えるだけに自分の寸法を知ってしまうところがあった》(同上)

客観性の罠、というものがある。官兵衛は他人の心だけでなく、自分自身についても、客観的にわかりすぎていた。しかし「わかる」ことが、「わからない」ことより強いとは限らない。だからこそ、晩年の官兵衛が、関ヶ原の戦いの裏で大博打に出たという冒険は胸を打つ。彼は人生の最期に一度だけ、おそらくは客観性を捨てた。

《物を考えるのはすべて頭脳であるとされるのは極端な迷信かもしれない。むしろ人間の感受性であることのほうが、割合としては大きいであろう。人によっては、感受性が日常知能の代用をし、そのほうが、頭脳で物事をとらえるより誤りがすくないということがありうる》(同上)

何かについて考える以前に、その「何か」を感受性によって的確に捕まえなければ始まらない。というところまではわかるが、「そのほうが誤りがすくない」というのはどういうことか。ここはまだ自分の理解が及んでいない。この先、いつかわかる日が来るのかもしれない。

《理屈などというものは単独で存在するものでなく、感情の裏打ちがあってはじめて現実化する。というより、理屈など、感情によってときに白から黒へでも変化するものに相違ない》(同上)

歴史上、正しい理屈を持ったほうが負けることは珍しくない。関ヶ原においても、理屈としては石田三成側が正しいとする向きは少なくないだろう。しかし感情というのは本当に御しがたい。それが他人のものとなればなおさらである。

むしろ一般的な仕事においては、「感情を理屈で裏打ちする」ほうを求められることが多いように思うが、「理屈を感情で裏打ちする」とは、いったいどのような状態を指すのか。そもそも「理屈」よりも遥かに不安定な「感情」によって、全体に安定をもたらす「裏打ち」など可能なのか。しかし人は皆、最終的な感情の落ち着きどころを求めて理屈を欲しているようにも見える。

《官兵衛はなるほど生涯、時代の点景にすぎなかったが、しかしその意味でえもいえぬおかしみを感じさせる点、街角で別れたあとも余韻ののこる感じの存在である。友人にもつなら、こういう男を持ちたい》(同上 あとがき)

官兵衛にはその知謀あふれる実績ゆえ、やや後ろ暗い「策士」のイメージがつきまとう。しかし司馬遼太郎はこの男の生涯を、こんな意外な言葉で締めくくっている。彼は「面の皮が乾いている」という表現を最大限の褒め言葉として使用することがあるが、官兵衛もまさに、そんな人であったのかもしれない。

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