泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

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レジスターという名の関ヶ原

スーパーとはつまり、「1万円入りま〜す!」と叫ぶ側と、おつりのないように1円単位まできっちり払いきる側の対決の場である戦場である。レジ係と客の間に真の友情などあり得ない。まれに1万円を超えてなお、1円単位まできっちり払いきる猛者が登場するが、その場合はドローとなる。ただし、見かけ上は1万円入れられた側のみが叫び声を上げることを許されているため、レジ係の勝利だと思われがちなのは致し方のないところだ。敗北に等しいドロー。

いま「1万円入れられた側」をレジ係だと私は言ったが、果たしてそうなのかどうか。ここで問題になってくるのは、「1万円入りま〜す!」という報告の言葉が、あたかも1万円札が、自らの意志で自動的にレジに突入してゆくような響きを持っていることである。「1万円入れま〜す!」でも「1万円いただきました!」でもなく、むしろ「1万円さん入りま〜す!」という大御所タレントの楽屋入りのような感触がそこにはある。1万円が紙幣の世界において大御所であるのは間違いのないところだが、これだと大御所タレントと同じく、1万円が自力で楽屋=レジ入りしていることになってしまいオカルトになる。

ここでさらに根本的な問題として浮上してくるのが、「1万円札はこの時点でいったい誰のものなのか」という点である。それによってレジ係の1万円札に対する対応・言葉遣いも当然変わってくるはずだからだ。普通に考えれば、お金というのはそれをいま現在物理的に保持している者の所有物であるが、レジ係が「1万円入りま〜す!」と叫んでいる時点で持っている1万円札は、間違いなくレジ係のレジ村スタ江(仮名)の所有物ではない。それは銀行でお金を預ける際、窓口の銀行員に渡したお金が、そのままその銀行員マネ田ロンダリ子(仮名)のお金ではないように。

もしその1万円札がレジ係のものであるならば、彼のあげる叫びの言葉は「1万円入れときま〜す!」になるだろう。あるいは「1万円いただきまし〜た!」(音を伸ばす位置は任意)でも良いが「入ってる感」が足りない。

しかしさらに冷や奴を食べながら冷静に考えてみれば、レジ係がいまレジに入れんとしている1万円札は、レジ係の雇い主であるスーパーのものですらないということがわかる。冷や奴を食べなければわからないところだった。

なぜならば、レジ係の言葉が「1万円入りました!」という完了形ではなく、「1万円入りま〜す!」という現在形、もっと言えばその時点ではまだ入る直前であるという意味で未来形であるからである。まだ1万円がレジに入っていないということは、その1万円札は依然として客の所有物であると言うこともできないわけではないのではないか。孤独な1万円札。

と、そのように考えていくと、ここまでにあげてきた問題は何ひとつ解決しないままに、なぜレジ係が「1万円入りま〜す!」そ叫ぶのかがわかってくる。つまりレジ係は、自分がいままさにレジに入れようとしている1万円札が、誰のものだかわからないがゆえに、1万円札が自らの意志で、自動的にレジに入る模様だと客観的に報告しているのだ。そのスタンスは、「午後から雨が降るでしょう」とお知らせする気象予報士となんら変わらない。雨は誰のものだかわからないから勝手に降るのであって、いくら精密な分析・予報をしても雨を降らせることはできないからそういうよそよそしい言い方をすることになっている。つまり「1万円入りま〜す!」という言葉は、あえて言い替えるならば、「1万円入るでしょう」という言い方がニュアンス的に最も近いということである。もちろん、言い替える必要はない。この文章は最初から必要のないことしか言っていない。

結局のところ、客側がおつりを1円単位まで、ちょうどぴったしにきっちりと払いきったところで、その際に何かしらの痛快な叫び声、たとえば「ジャスト!」「してやったり!」「ざまあみろ!」「貨幣制度ここにあり!」「新陰流(レジの金を陰で着服する流派の新しいほうのやつ)敗れたり!」などとシャウトするわけにいかない時点で、われわれ客側の敗北はあらかじめ揺るぎなく確定しているのだが。いやこれは体裁上叫ぶ「わけにいかない」だけで、すべての人間に何ごとかを叫ぶ「権利はある」ので自由に叫べばいいとは思うが、そのことによって誰も得しないことは間違いないから、静かにぴったり払い敗北を抱きしめるのみ。

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