泣きながら一気に書きました

妄言コラムと気儘批評と悪戯短篇小説の巣窟

風邪の歌を聴け

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考えてみれば、その日は朝起きた瞬間から妙な浮遊感があった。

週の初めに風邪の症状を自覚してから五日目となる木曜の朝、六時過ぎにふと目が覚めた。

前日の夜、すっかり風邪のピークは過ぎて、あとは時間の経過とともに自然治癒していくはず、という確信があった。といっても、その程度の経験則が確信と呼べるレベルのものであるはずがなかった。

なぜなら人は、風邪のひきかたも治しかたも、毎度見事に忘れるからである。それは母親が出産の痛みを忘れるような、リピートを促すための本能的反応なのかもしれない。

僕らは夏場には冬の寒さになど想像も及ばず、冬には半袖を着てアイスを食う日が来るなどあり得ないと感じている。毎年夏が来ればその暑さにいちいち驚き、冬が来ればこんなに寒くなるとは思わなかったと衝撃を受ける。そしてクローゼットの奥に転がり落ちている手袋やマフラーを引っぱり出す。

彼ら急遽社会復帰を命じられた防寒具たちは一様に、「いや~、まさかまた呼び出されるとは思いませんでしたよ」と顔に皺を寄せて苦笑いしている。こっちだって春が来ればもう二度と逢うまいと思ったから、そんな窮屈なところに押し込んでいたのだ。

だがそれはあくまでも、人間側からの視点に過ぎない。むしろウイルス側から見れば、彼らは「自らの死と引き換えに、宿主である人間の脳内から、自身を打倒したプロセスの記憶を消し去ってゆく」という周到なプランを毎度決行しているのかもしれない。人がウイルスの倒しかたをその都度忘れれば、ウイルス界全体の長寿化につながるだろう。

スポーツですら対戦相手のデータが戦術上重要となってきている昨今、敵選手の特徴やフォーメーション、得点パターンなどのデータをすっかり消去されてしまえば、苦戦することになるのは間違いない。すでに人間は、戦術面においてウイルスに遅れを取っているということか。

しかし今はウイルス目線で考えていても仕方ない。いったいなんの話だったか? いつから僕はウイルスになったのか? いやウイルスではなく人間である僕は、もう風邪のピークは過ぎたという自己判断の末眠ったはずのに、朝目覚めたらものすごくフラフラだったのである。

これまでの人生で、そんなことは一度もなかった。風邪が治りかけたら、風邪は治るのである。といってもそれすら、ウイルスに記憶をねじ曲げられているだけなのかもしれない。本当は治りかけたと思った後にピークが来る、という経験を何度もしているのに、その記憶を完全消去されていて、「スムーズに治った」と間違った情報をプリンティングされている可能性もある。次に風をひいた際、簡単に治させないようにと。

とにかくその朝、僕はフラフラの状態で起きた。明らかに熱がある感じだったので、測ったら37度3分だった。たいしたことないと思われるかもしれないが、もともと熱が出にくい体質らしく、風邪をひいてもあまり熱が出ない。熱に慣れていないから、ちょっと出ただけでも猛烈なダルさに襲われる。

風邪をひいたときのあの体の節々が冒されている感覚は、やっぱり風邪をひいていない時にはまったく思い出せない。記憶から完全に消去されているから、どうせひいてもたいしたことないだろうと思って油断して、また安易に風邪をひく。やっぱりウイルスの策としか思えない。彼らの怖さを忘れさせられた結果、我々はついついガードを下げて生活してしまうのだ。

とりあえず体温計は見なかったことにして、僕は二度寝することにした。峠は昨晩越えたはずであるからだ。しかしそこに至るまで熱は一度も測っていなかったので、峠の曲線はまったくの不明であった。ここが頂上なのか麓なのかもわからない。

それ以上考えても仕方ないので、体温計の故障だということにして寝た。都合の悪いときは、機械のせいにするのが精神衛生上いちばんいい。実際のところ、十年以上前に買った体温計なので、壊れていても不思議はないのだし。

「寝た」と書いてはみたが、実際のところなかなか眠れずウトウトと悶々を繰り返し、しばらくたってからもう一度熱を測ってみた。今度は37度7分あった。どうやらピークを越えたどころか、峠はこの先に待っているようだ。

そう考えると、体中どこを触っても熱を帯びているような気がしはじめて、これは早いとこ病院へ行かなければならないと確信した。しかし引っ越してきてから全然病院に行っていないので、行くとなると病院を探すところからはじめなければならない。ネットで検索すると、どうやら病院は木曜休診のところが案外多いらしいことに気づく。その日は木曜日であった。

ようやく近所の綺麗めな病院を見つけて、なんとなく着替えてそこへ向かうことにした。フラフラで食欲がないが、何か食べないとまずいと思い、バナナを一本食べて家を出た。

歩いて十分ちょいの病院へ着くころには、僕は汗だくになっていた。熱があるせいもあるし、マスクをしているせいもある。ビルのエレベーターを降りて目的の病院へ入ると、平日朝10時にもかかわらず、病院の待合室はいっぱいであった。とりあえず受付にいくと、予約はしたかと問われ、していないと答えると、今日は予約でいっぱいだから無理だと言われた。

しかし受付の女性もこちらの顔色の悪さと変な汗のかきかたを見て察してくれたようで、すぐに近くの別の病院を紹介してくれた。今さら選べる状況でもないので、ここはありがたく言うことをきいて、素直に言われた通りの病院へと向かった。

風邪くらいで平日の朝に病院をたらい回しにされる印象も覚悟もなかったので、この時点で何かおかしいというか、僕はカフカの『城』っぽい展開だなと感じていた。

もしそうだとすると、僕はずっと目標地点=病院の周囲をグルグルと回るばかりで、病院へはいっこうにたどり着けないことになる。途中で女の人とひたすら床に転がったりできるという展開は悪くない(カフカの描く恋人たちは、なぜか床を転がってばかりいる)が、病院へたどり着けなければひとり路上に転がることになる。

だが背に腹は代えられない。教えられた場所へ行くと、そこは明らかに日当たりが悪くジメジメとした、廃校のような病院であった。僕は普段からその前を何度も通り過ぎてはいたが、そのたびに「誰がこんな野戦病院みたいなところへわざわざ通うんだろう?」と不思議に思っていたそのホスピタルの前にいた。

しかしもはや他に選択肢はない。僕はその薄暗い空間へと足を踏み入れた。見た感じ、明らかにすいている。むしろ大きくなる不安……。

だがここでまた不思議なことが起こる。受付に用件を告げてなにやら用紙に記入したのちに顔を上げると、目の前にとんでもない美人がいたのである。僕が用紙を受け取ったのはこの人ではなかったはずだが、いつのまに。

他に数名いるスタッフからは明らかに空気感の異なる、かといって浮ついた感じなど微塵もない、どちらかというと薄い顔だが明らかに美しいとしか言いようがない完璧美人が目の前に存在していた。しかも、僕がこれまで目撃したどの美人とも似ていない、芸能人の誰とも似ていない、唯一無二の存在感を放っている。そんな孤高の人間など実在するのだろうか。しかもこんな誰が見ても場違いなところに。

僕はそれ以降まともに彼女の顔を見られぬまま、記入した用紙を渡してソファーへと引き下がり、名前を呼ばれるのを待った。しばらくすると横にスタッフが来て、呼びかけられた。目を上げると、さっきの完璧美人がそこに立っていた。完璧美人は言った。

「とりま、診察券を作っておきましたので」

僕は耳を疑ったと同時に、自らの脳をも疑った。熱で脳内が溶け落ちているせいかもしれないからだ。

「とりま」

たしかに彼女はそう言った。「とりあえず」ではなく、「とりま」の三文字。いやもちろん、知っている略語ではある。若者からすでに一般に普及している言葉であることも知っている。たしかに彼女は若いし(二十代中盤くらい?)、使うこと自体は不自然ではない。しかし病院で「とりま」はないだろう。

いや別に、全然不快でもなんでもないし、むしろ彼女が僕にそれくらい気安く接してくれたというのなら嬉しいくらいだが、たぶんそういうことでもない。それくらい彼女の放つ「とりま」はおそろしく自然な「とりま」だった。

そもそもこんな完璧美人が、こんな廃病院のような場所にいるのがおかしい。しかも彼女は誰にも似ていないのに、それをなんの基準もなく美人と確信できる僕の感性もなんだか信用ならない。そんなことをぐるぐる考えていると、彼女が質問してきた。

「熱はありますか?」

「38度近くあります」僕は答えた、実際に家を出る前には、37度7分あった。

「では念のため測りましょう」

彼女は体温計を差し出して去った。僕は大人しく体温を測った。36度5分だった。

そんなはずはない! たしかに37度7分あったのだ! ちゃんと熱があったから僕はここへ来たのだ! けっして冷やかしで来ているわけじゃないんです。本当に調子が悪いんです。おい何やってんだ俺の体! 熱出るのかい、出ないのかい、どっちなんだい!(きんに君)ここは意地でも叩き出せよフィーバー! 叩き出してみせるのがマナー!

ここへ来るまでに汗をかきすぎて下がったのか、出がけのバナナが効いたのか? それともやはり、家の体温計が壊れていたのか?――などとこの急激な体温低下の理由を考えていると、例の完璧美人が近づいてきた。

僕はしぶしぶ体温計を渡しつつ、「あ、下がってるみたいです……」とバツの悪い感じを滲ませながら、僕が「下げた」のではなく何ものかのせいで勝手に「下がった」ことを強調する言いかたをした。彼女は「はい、わかりました」となんの感情も見当たらないプレーンな声を残して消えた。

その後も、カフカ『審判』に出てくる裁判所の回廊のような場所に座って順番を待ちながら、病院内をボーッと眺めていた。時折目に入る完璧美人の姿は、やはりどの状況においても完全に浮いていた。派手じゃないのに浮いていた。背景に人物が馴染んでいない。白衣はとても似合っているのに。なのに彼女は「とりま」と言った。

そんなことが本当にあり得るだろうか。やはりこれは、カフカ的な、悪夢のような世界観なのではないか。何かしら因果律が狂っている。いるべきでない場所に、いるべきでない人がいる。言いそうもないことを、言いそうもない人が言う。

ということはもう、人間よりも世界のほうが劇的に変化してしまったと見るべきではないのか。当たり前のことが当たり前でなくなり、当たり前でないことが当たり前になっている世界。

しばらくして呼び出され診察室へ入ると、カーテンで隣と仕切られただけの空間に3人の医者が並んでいるという、まさに野戦病院のような状況。僕は真ん中の医師に手招きされたため、左右のカーテン越しに響く声を気にしながら診察を受けるとあっさり風邪と診断され、再び待合室で処方を待った。受付に呼ばれて会計を済ましたが、すでに完璧美人の姿はどこにもなかった。

不思議な気持ちに包まれたまま薬局で薬を受け取り、家に帰ってその薬を飲んで寝ると、もらったその5種類ほどの薬セットはおそろしく効いた。これまで体験したほどのないスピードで、劇的に効いた。この薬は大丈夫なんだろうか、と逆に不安になったのは言うまでもない。

いったん心を落ち着けるために、あの完璧美人の顔を思い浮かべてみた。しかし彼女は誰にも似ていないから、記憶の抽斗の取っ手がどこにも見つからず、どうやってもその姿は像を結ばなかった。

あるいはこれも、ウイルスの仕業なのかもしれない。ウイルスにしてみれば、宿主が病院へ行くモチベーションなど、消し去ったほうがいいに決まっているのだ。


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tmykinoue.hatenablog.com

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噛むガム Is Coming!

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数年に一度、ガムブームが来る。「来る」といっても自分の中に来るというだけの話である。ちなみに「噛む」という日本語動詞と「ガム」という英単語の親和性はどういうわけか。そして噛むべきガムのブームがCOME(来る)。

そういえば世の中的に、いつガムブームが来ていつ去っているのかをまったく知らない。スーパーやコンビニの店頭を見る限り、ずっと来ているようでも、ずっと来ていないようでもある。それを「定着」と呼ぶのかもしれないが、僕の中では定着していないので数年に一度粘っこいヤツが突如来る。あるいは十数年に一度くらいかもしれない。周期的には彗星の領域である。

ガムといえば、昔は長方形の板ガムが重ねられてパッケージングされた直方体の状態で売っているものが主流であったが、いまやすっかりボトルケースが売り場面積を占めている。

ところで「直方体」と「立方体」、どちらが正方形まみれのサイコロ型を指すのかがいまだにわからなくなる。なんとなく「直」のほうが真っ正直な感じがするし、一方で「立」というのは単に立体であるということを示しているにすぎない(つまり立体であればなんでも良い)ように見えるから、つい直方体のほうがサイコロだと思ってしまう。そして間違える。正直者はいつだって馬鹿を見るのである。

そのうえサイコロも転がりを良くするため角は微妙に丸くしてあるので、あれは正確にいえば立方体ではない。何から何まで虚構まみれの汚れた世界だ。

話を戻すが戻したところでたいした話じゃない。誰かが十万円くれるという話をしていたところがいつの間にか天気の話になって、諦めかけたところでまた十万円くれる話に戻ったらかなり嬉しいだろうが、ガムの話がガムに戻ったところで果たして喜ぶ人がいるんだろうか。ガム会社の人ですら喜ばないと思うが。

いやガムのおかげで一命を取り留めたくらいの人ならば、あるいは喜んでくれるかもしれない。ビルの屋上から飛び降りようとしたけれど、靴底の裏にガムがへばりついていて、うまく飛び降りることができず自殺を諦めた、とか。いやむしろ、ガムが綺麗に靴だけを取り残して、人間本体は綺麗にリリースされてしまうのか。屋上のへりに揃えられた靴の裏には、もれなくガムがへばりついている可能性。

いや本当に書きたかったのは、例のボトルケース状態になってから、ガムの「捨て紙」問題が発生していて、板ガム状のときには包み紙がそのまま「捨て紙」にトランスフォームするからいいけれど、ボトルケースだと包み紙というものが存在しないから、なんとなく付箋の束がボトルに放り込まれてるのってどうなの? という疑問である。

付箋は包むのが本業ではないうえに、サイズ的に一粒なら包めるが二粒だとはみ出がち、枚数的にも一粒ずつ食べる人には足りず、二粒ずつ食べる人にはやや余るという、万事「帯に短したすきに長し」状態。

そうなるともうこいつら根本的にガムを包み込むことに向いてないんだから、だったらちゃんと本職を呼び出そうよ、という気分になるのだが、ここに「コスト」という世知辛い概念を持ち込むと一気に「別にこのままでいいや」という気持ちに傾く程度の疑問。

まあ時にそんなことを思いながら食べているうちに、いつのまにか食べなくなって、そのまんままた十年とか食べなくなるんだろう。
食べても飲み込めず、吐き出さなくてはならないという宿命。だからガムは僕の中に定着せず、いつだってブームに終わる。


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デヴィッド・リンチ/『アートライフ』

デヴィッド・リンチ:アートライフ [DVD]

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現世にデヴィッド・リンチほど「奇才」という呼び名がふさわしい人間はいないと思うが、どんな奇才にもルーツはある、ということが少しだけわかる一作。むろんどんな開示のされ方をしようと、その不可解な才能の全貌などわかるはずもない。しかし「わからなさ」の多い彼のフィクションに比べると、ほんの少しでも「わかる」部分、共感できる部分を見出せるというのは、ファンにとって結構な収穫であるかもしれない。

内容的には、長編デビュー作『イレイザーヘッド』に至るまでの半生をリンチの独白により振り返るもので、リンチにしては思いのほかストレートな構成である。そんなに緊張感のある作りではないので、さほど構える必要はないが、ところどころ印象的なエピソードや言葉が出てくるので油断もできない。

まずは冒頭で語られる以下の言葉が印象的である。この言葉はリンチの創作手法のひとつであると同時に、本作がこのタイミングでリリースされた意図の説明にもなっている。

たとえば絵を描くとか
ある種のアイデアを追求しようとする時
そのアイデアを呼び出し彩るのは過去だ
新しいアイデアに過去が色をつける

創作のプロセスを訊かれた場合、「過去になど興味はない」「過去の自分に縛られたくない」と語る向きは多い。まだ見ぬ新しいものを創るためには、過去を振り返るのではなく、未来だけを見据えなければならない、と。

そういう意味で、このリンチの言葉はかなり意外であるかもしれない。だが一方で、創作に必要な「想像力」というのは、「観察力」や「感受性」をベースとしているのも事実である。

創作者は過去に見聞きし感じた事柄をヒントに、その先の風景を思い描く。つまりそのイマジネーションの素材の大半は、今よりも過去に体験した出来事の中から見つけたり感じたりして収集したものである。

同じ意味で、創作の秘訣は「記憶力」であるとする人もいる。過去に観察したり感じたりしたことを、適宜記憶の彼方から引っ張り出せるかどうかが勝負であると。裏を返せば、記憶できない「観察」や「感知」など、少なくとも創作においては役に立たぬ、と。

しかしリンチの場合、過去はアイデアを呼び出すだけでなく、「彩る」ものであるとしているところが興味深い。さらに彼は、《新しいアイデアに過去が色をつける》とまで言っている。普通に考えれば、これは逆にしたほうが自然だろう。「過去のアイデアに、新しい色をつける」というのが一般的な手順である。

リンチの作品では、時制が逆転する、つまり過去が今よりも後に来る展開が頻出するが、ここで語られた創作作法も、どうやらその作品内容に通じているように見える。彼は誰も見たことのない手法でまだ見ぬ「未来」を見せつける作家でありながら、「過去」への執着が異様に強い人でもある。いやむしろ、「過去」をより良く描き出すために、斬新かつ「未来」的な手法を利用していると言ってもいいくらいに。

その他にも、リンチが元は絵描きであったこと、幼少期から父と一緒に工作をしていたこと、常に自身の才能を見出してくれる人に恵まれたこと、逆に言えば見出されるほどの何かを常に放っていたということ、なんでもない思い出語りが徹底して映像的であること、若き日のライフスタイルが案外「リア充」であること――などなど、「やっぱり」と腑に落ちる部分と意外な部分がひょこひょこ出てくるのが興味深い。

しかし自らの作品内で、あれだけ夜中に遊び歩く乱れた若者たちを大量に描いているわけだから、そりゃあ自分自身も「リア充」的なパーティー体験は結構あったはずだよなぁ、と妙に納得はいってみたり。それはまさに、豊かな過去が新しいアイデアに色をつける、といった按配なのかもしれず。

最後にもうひとつ、作中に出てくるリンチの印象的な言葉を引用して締めくくりたい。これはあらゆる創作者に、勇気を与える言葉であると思う。

全てをダメにする失敗から――
何かが生まれる時もある
よりよい作品がね
よく制御されたものは
ある意味 開かれてない
線引きをすることで表現がダメになる
時にはひどい失敗をしてかき乱されないと――
探しているものは見つからない

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