泣きながら一気に書きました

妄言コラムと気儘批評と悪戯短篇小説の巣窟

勇者・二度見村ミム彦の誤解

f:id:arsenal4:20170614121446j:plain:w320

勇者・二度見村ミム彦はいわゆる「二度見」の天才であった。彼はあらゆるものを二度見る。そして一度見た段階では確実に見間違えるが、再び同じものが視野に入ればその対象を正確に把握することができる。

めでたく二十歳の誕生日を迎えたその日、ミム彦は初めて宮殿に招かれた。この村では、勇者が成人するとその日に王様から重大な任務を言い渡されるのが通例である。

身なりを整えつつ窓の外にちらりと目を遣ると、どうやら雨が降っていた。傘を差していくのは面倒だなぁと思いつつ念のため再び窓を見ると空は晴れており、単に激しめの雨柄Tシャツを着用した男が窓の外を通過しただけであった。やはり二度見ることはミム彦にとって至極重要なことである。とりあえず傘を持っていかなくて良いので少しは気が楽になった。

山の上に向かって5分ほど歩くと、ミム彦は宮殿をいったん視界に捉えた。ほどけた靴紐を結び直して再び目を上げると、そこにある建物は宮殿ではなく小汚い居酒屋に変貌していた。門前にいる衛兵に見えた男たちは、もう一度よく見ると割引クーポンを配るキャッチのお兄さんだった。ミム彦はクーポンを受け取ると居酒屋に入った。これで一杯目のビールは無料だ。成人してはじめて飲めるビールが無料とは幸先が良い。

店内にはもちろんレッドカーペットが敷かれており、奥の玉座にはものものしい王様が鎮座している。いちおう見直してみると、床には紅ショウガが数本落ちており、玉座と思われた奥のカウンター席には黄色い「巨人帽」という名の王冠をかぶったみすぼらしい中年男性が座っていた。男はビールジョッキに投入して泡洗浄したつもりの入れ歯を左手で嵌めながら、右手でこちらを手招きしている。

ミム彦は男の手の動きに誘われるように、隣のスツールに腰掛けた。つもりだったが、改めて見るとそれはスツールではなく業務用サイズの蚊取り線香だった。ズボンの尻がちょっと焦げたが構わず座ったら丸ごと潰れて鎮火した。

ほぼ床に座った状態のミム彦に店員が注文を取りに来たので、先ほど入手したクーポン券を手渡した。店員に見えた男はもう一度見ると明らかに客で、クーポン券はよく見るとどこかの子供が作った手作りの肩たたき券だった。いずれにしろこれではビールは無料にならない。

ミム彦は適当に当たり障りのない注文を済ませると、視野を確保するために立ち上がり、王様であるはずの巨人帽の男に話しかけた。

「二度見村ミム彦、ただいま参上つかまつりました」

「まあ、飲めや。ハタチになったんやろ」

王様は気さくにビールを勧めてきたが、それは間違いなく先ほど彼が自らの入れ歯を投入洗浄していたビールジョッキであった。ミム彦は自分が本物の勇者であるかどうか、試されていると感じた。これを迷わず飲む勇気か、潔く断る勇気か。いずれにしろ、真の勇者にしかなし得ないことであった。

ミム彦はもう一度よく王様の顔を見てみた。どうみても庶民的なおっさんだった。一度見間違えたものを二度見ると劇的にその印象が変化するが、三度以上見てもなんの変化もなかった。ということはこの王様は王様ではなく、だとするとミム彦も勇者ではないのかもしれなかった。

そう考えはじめたミム彦は解答をいったん保留して席を立ち、トイレの鏡の前で自分の顔をジッと見つめた。そこには見たこともないような、一片の勇ましさも感じられぬ弱気なオタク青年の姿があった。この貧弱な男が、勇者であるはずがない。

そしてそれは、ミム彦がこれまで二十年間の人生において二三四五二回目に鏡で見た自分の顔であった。まるで初めて見るようなその顔こそが、彼の真の姿だった。

つまり彼が本当に物事を正確に把握できるのは、対象を二度目に見たときではなく、二三四五二度目に見たときなのであった。劇的な印象の変化は一度目と二度目の間に起こるがいずれの印象も間違いであり、二度目から二三四五一度目までは変化がなく、二三四五二度目に至ってようやく正しい印象へと辿り着くのであった。

しょせんこの世は幻。もしもミム彦がいま、これを「二三四五二度見」だと気づいていれば「二三四五二度見村ミム彦」への改名を真剣に考えるところだが、むろん人生で自分の姿を映し見た回数などカウントしているはずもなかった。それに名前ではなく名字だから、変えるにしても手続きが面倒なことになっただろう。

周囲にとってみれば、ただでさえ長い名字がさらに長大にならなかっただけでも僥倖と言えた。


tmykinoue.hatenablog.com

tmykinoue.hatenablog.com

ITEMYA 防御力+1Tシャツ ブラック サイズ:M

ITEMYA 防御力+1Tシャツ ブラック サイズ:M

似合わせなカット

f:id:arsenal4:20170607182329j:plain

近ごろ髪切り場の看板黒板そしてネット上でやたらと目撃するようになった謎のメニューがある。

「似合わせカット ¥6,480」

なんということでしょう。なんだかわからないが、このメニュー名からは「言葉の圧」のようなものが強烈に発散されている。「似合わせる」という使役文体が、その強制力を遺憾なく発揮しているのかもしれない。

しかしその「言葉の圧」がどの方向に向けられているかというと、これがよくわからない。「絶対に似合わせてみせます!」という切り師の自信表明なのか、「とにかくお客様の言う通りにします」という徹底的な媚びなのか。あるいは、「こっちは全力で似合わせようと努力しているのだから、もしそれでも似合わなかったとしたら、お客様の顔面の圧倒的な質の低さが原因です」と責任の所在を明らかにしようとしているのか。

さらに厄介なのは、このメニューを掲げている髪切り場の場合、「似合わせカット」以外の普通のカットというメニューが存在していないのである。つまり「似合わせカット」には「スタンダードカットのハイグレードバージョン」などという質の上下を示す特別な意味などはなく、それはデフォルトつまり「標準カット」を意味していると思われる。

いわばここでも言葉のインフレが起こっているのである。以前僕は輸入CD屋で、「名盤!」「傑作!」「名作!」「超名盤!」「必聴盤!」「神盤!」「奇跡の一枚!」「十年に一度レベルの衝撃!」「聴かずに死ねるか!」といった絶賛系キャッチコピーがほとんどの作品につけられていることにひどく困惑した経験があるのだが、もし髪切り業界でこの「似合わせカット」がデフォルトになってきているとしたら、そこには同様に際限なき言葉のインフレーションが待ち受けているはずなのである。総理、これはいったい何ノミクスなんでしょうか総理。

そもそも髪切り場に赴く客が、自分に似合う髪型にしてもらいたいのは当たり前のことである。たとえ切り師にどんな無茶なリクエストをしようとも、そこには「似合う髪型にしてください」というひとことが間違いなく暗に含まれているはずだ。「言わずもがな」というやつである。

いやもしかすると、「オダジョーみたいにしろっていうあなたのリクエストは絶対に似合わないから、却下して全然別のもっと似合う(無難な)髪型にしてあげます」という切り師サイドの親切心を超えた老婆心こそが「似合わせカット」という言葉の真意なのだろうか?

しかしだとしたら、それは切り師にとっての「似合わせカット」ではあっても、客にとっての「似合わせカット」ではまったくないということになる。オダジョーになりたい客は、オダジョーの髪型が自分に似合うと信じているか、もしくは似合わないと薄々わかってはいても、それでも切り師の腕前でなんとかオダジョー刈りのまま似合わせてくれたりしないものかと考えているはずなのである。もちろん後者は明らかな無茶振りであって、もはや美容整形外科で発注すべき案件であるのだが。

それ以前にオダジョーの髪型はそもそも変化が激しすぎるため、意思疎通の手段としてはリスクが大きすぎる、という別の問題もある。切り終わった段階で鏡を見て、「このオダジョーじゃなくて、3つ前のオダジョーを頼んだのに!」という事故が多発していること請け合いである。

まあそこは憧れる対象と自身の顔面との距離感を見誤った自己責任であるとして、同じ「似合わせカット」という言葉でも、切り師にとってのそれと客にとってのそれとでは、すっかり意味が正反対になり得るということだ。

つまり「客が似合うと信じているが切り師から見れば似合わないカット」というのは、客からすればまさに「似合わせカット」であるのだが、切り師からすればむしろ「似合わせなカット」であるということになる。この場合、「似合わないことがあらかじめわかっている状態で切る」という敗戦処理的なスタンスが切り師に求められることになる。

それでも客の信じる「似合わせ」と自らの信じる「似合わせ」のあいだを取ってなんとか「落としどころ」を探るというのが、プロの切り師に求められる技術とセンスなのかもしれない。だがそうなると切る側も切られる側も、いずれにとっても少なからず妥協が必要となり完全な「似合わせ」ではなくなってしまうから、そのカットはどちらサイドから見ても「似合わせカット」を名乗る資格を失うことになる。

なのでもしどうしても「似合わせカット」という言葉を使いたいならば、「似合わせカット(客目線)」「似合わせカット(切り師目線)」という風に立場によって分類するか、あるいは切り師目線に固定して「似合わせカット」だけでなく「似合わせなカット」という新メニューを拵えるか等、さらなるオプションを考える必要があるのではないか。ないのではないか。ないのだろう。ないに違いない。もうないなんて言わないよ絶対。


tmykinoue.hatenablog.com

tmykinoue.hatenablog.com

カールの乱、ポテチの変

f:id:arsenal4:20170531003319j:plain

日本はついに、カールとポテチのない未曾有の時代へと突入した。正確にいえば完全にないわけではないが西日本限定になったり品薄だったりで、まあ大雑把にいえば「ない」というか「入手困難な状況が継続、あるいはわりと頻繁に起こり得る」という時代になったというわけだ。しかしこれは大変なことである。大変なことなのだよ諸君。

www.huffingtonpost.jp

www.jiji.com

はたしてこの先我々は、どのようにして生きていけば良いというのだろうか。たとえば毎朝の通勤電車に、これから我々はカールなしで乗らなければならないのである。そもそも我々は、カールなしであの鉄壁の自動改札を通過することなどできるのであろうか? もちろん電車に乗る以前に横断歩道だって、当然カールなしで渡らなければならないのである。想像するだに怖ろしいではないか。

学生にとっては、人生を賭けた大学入試当日にまさかポテチなしで挑むことになろうとは、まさに「寝耳に水」の話であろう。教育指導要領の改訂やセンター試験の廃止などよりも、これはよほど一大事である。ポテチを失ったとなれば、受験生はいったい何を基準に選択肢を選べば良いというのか? ポテチがカバンに入っていなければ、マークシートをまともに塗りつぶせるかどうかもわからない、手の震えが止まらない、そんな受験生が続出するのは火を見るより明らかであろう。

結婚式にポテチがなく、葬式にカールがない。そんな惨憺たる状況が、はたして今後許されるようになってゆくのであろうか。男性は女性に、カールなしでどうやってプロポーズするつもりなのか? 結婚式での神聖なる「誓いのポテチ」は丸ごと廃止されてしまうのか? 聖歌隊が歌いあげる賛美歌の歌詞は、ポテチ以外の何を讃え歌うことがあろう。披露宴ではキャンドルサービスの炎で、ポテト以外のいったい何を揚げれば良いというのか?

とはいえ家に帰ればひと安心、となるはずもない。ポテチなしで風呂に入ったとして、我々にいったい何ができるというのだろう? カールなしでは眠れないという不安の声が、早くも東日本の女子中学生たちの間からあがりはじめているという。

我々の生活的側面だけでなく、社会秩序の面においても不安は尽きない。それにつけても、刑事はカールなしで犯人を逮捕できるはずがないではないか。もはや治安の悪化は目に見えている。ハッピーターンで犯人を逮捕できるとは、どうにも思えないのである。

話が飛躍するようで申し訳ないが、もしも宇宙人が襲来した場合、我々は宇宙人にポテチ以外の何を渡せば良いというのか。ポテチの他に、宇宙人とコミュニケーションを取るどんな手段が残されているというのだろう。

「あんまり高いところにいくと、気圧の関係でポテチの袋がパンパンになっちゃうから気をつけてくださいね」

我々が真っ先に宇宙人に伝えるべき言葉が、そのほかに何かあるだろうか?

以上の如く、これは明らかに何かしらの終わりの始まりである。「なかったらなかったで別にいい」そんな強がりを言っているうちに、我々は何もできなくなってしまうに違いない。「じゃがいもを揚げ、コーンを曲げる」たったそれだけのことが、いかにこの世界を円滑に回してきたか、まもなく我々はそれを思い知らされることになるだろう。


tmykinoue.hatenablog.com

tmykinoue.hatenablog.com

Copyright © 2008 泣きながら一気に書きました All Rights Reserved.