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泣きながら一気に書きました

妄言コラムと気儘批評と悪戯短篇小説の巣窟

リオ五輪の贈りもの(誤配)

コラム

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大きな出来事のあとには、必ずその影響があちこちに見受けられるもの。特に五輪の影響は毎度大きく、過去にも冬季五輪の直後にスケート場が混雑したり、日本代表の善戦を観て突如カーリングをはじめる人が続出、なんてこともあった。

あのとき勢いあまって用具一式買い揃えた人の家の台所には、今ごろカラフルな「取っ手つきの漬け物石」が鎮座していることだろう。ブラシのほうは、カバの背中を掃除するのに丁度よい。カバが家にはちょうどよくないが。

では先日幕を閉じたリオ五輪が、我々の日常生活にもたらした影響とはなんだろうか? 改めてそう考えてみると、いくらでもあるようにも、特に何もないようにも思われる。そういう場合は勝手に各種シチュエーションを想像して、「ある」ことにしてしまったほうがたぶん面白い。というわけで、「リオ五輪は我々の生活に甚大な影響を及ぼした」ということにする。

たとえばとあるオフィスにて。

企画書の作成を頼まれていた部下が上司に企画書を提出するも、即座に却下されるという憂き目に遭う。一生懸命作った企画書なのに、ろくに読み込まずに突っ返されるなんて、とても納得がいかない。ここで部下の脳内には、リオ五輪で頻繁に耳にした「チャレンジ」という言葉が甦る。そして中日ドラゴンズファンである彼の目は、自らのデスクトップの上に置いてあった「ドアラ」のぬいぐるみへとズームイン。

これぞまさに一世一代のチャンスである。部下は上司の机の上に、つかみ取ったドアラのぬいぐるみを、あえて大仰な山本昌のフォームで思いっきり投げ入れる。普段ならば、誰もが唖然とする暴力行為に映るだろう。しかし時は五輪直後。同僚はみな、レスリングの金メダル獲得をともに目撃した同志である。

「チャレンジだ!」

どこからともなく声が上がり、普段ならば上司に刃向かう越権行為であるはずの不服申し立てが、あたかも当然の権利であるかのように周囲に受け止められる。むしろよくやった、という空気さえ漂っている。

上司の机上にあったコーヒーカップに頭から突っ込み、腰のあたりまで真っ黒に染まってグッタリするドアラを尻目に、先ほど突っ返された企画書を再び堂々と上司に突きつける部下。

すべての選手に認められた正式な「チャレンジ」の手順を踏んでいる以上、上司はこれを無視するわけにはいかないはず。ここには選手など誰ひとりおらず、ましてやレスリングでもオリンピックでもなんでもないのに、五輪の余波がそんな「チャレンジ歓迎」の空気を作り出す。

上司は仕方なく出来の悪い誤字まみれの、実現性皆無な企画書を読み込み、時間の無駄としか思えない詳細な指導を余儀なくされる……。

あるいは学校帰りの小学生集団。重たいランドセルに嫌気がさしたリーダー格の子供が、年上なのに気の弱い山田君を標的にすべく、皆の前で五輪からいただいた恐るべきフレーズを言い放つ。

「なあみんな、山田さん手ぶらで帰すわけにいかねえだろ」

その五輪仕込みのひとことが内包する得体の知れぬ力により、先輩の山田君はどういうわけか五人分のランドセルを持たされる。というより、もはや全身ランドセルに取り憑かれたような、呪いレベルの「脱・手ぶら」状態で帰ることになるのだった……。

珈琲色に染まったドアラと五人分のランドセル――それが僕らの受け取るべき、リオ五輪からの贈りものである。

使えない自由研究

コラム

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学生にとっては夏休みも残り一週間。あー夏休み。何も言えなくて…夏。ひとりごと以外は基本、何も言えず、時には「あー」くらい言ってるうちに甲子園もリオ五輪も終わり、残されたのはただひとつの決定的な事実。

「夏休みの宿題どうしよう」

夏休み終盤といえば宿題、夏休みの宿題といえば自由研究である。正直、個人的には7月中に終わらせる「先行逃げ切り型」であり、中には夏休み前に終わらせているフライングの猛者もいた。しかし早く終わらせれば終わらせるほど勉強ができるのかというとそんなこともなく、特に夏休み前に終わらせる輩は、むしろ普段成績の悪い人間が多かったような気がする。つまり拙速ということか、あるいは勉強が嫌いすぎて「先に退治したい」というモチベーションが異様に高いのか。

しかし「自由研究」というのも、改めて考えてみると変な言葉である。「自由研究」なる課題がわざわざ設けられているということは、それ以外の勉強はすべて「自由ではない」と言われているようなものではないか。そしてそれはたぶん、結構真実なんだと思う。テーマの設定も自由、研究の手順も方法も自由、レポートの書式も自由。少なくとも「勉強」というシチュエーションにおいて、こんなに「大量の自由」に囲まれることは、滅多にあるもんじゃない。それが「学問」の本質であるにもかかわらず。

つまり自由研究をやるに際してはまず、与えられた「自由」をひとつひとつ「潰して」いかないといけない。それはつまり「方向づけ」をするという意味だが、そこで重要になってくるのはやはり「テーマ選び」である。いま考えてみると、自由研究の典型としてみんながこぞってやっていた「昆虫採集」に、テーマなど一切なかった。あるとしたら、「カブトムシが好き。ミヤマクワガタはもっと好き!」くらいの「嗜好」くらいなもので。

研究において、テーマは重要な要素である。しかし「自由研究」なのだから、本来テーマはなんだっていいはずだ。「重要なのになんでもいい」などと言われても困るが、人生にはそういう局面が思いのほか多い。花見の席で上司に、「この金でなんでもいいからつまみと飲み物買ってこい」と言われた場合なんかも、模範的な「重要なのになんでもいい」ケースだ。実質的には「なんでもいい」わけでは全然ないのは周知のとおり。

だが、せっかく向こう(先生?学校?)が「自由」だと言っているのだ。ここはテーマを否定されたら、「だって自由だって言ったじゃないですか」の一点張りで強行突破することにして、頼まれてもいないのに「本当に自由な」自由研究のテーマを考えてみるのもいい。


《自由研究のテーマ》
【オリンピックの新競技を考える】

●研究の意図

今回のリオ五輪が開催される過程で、オリンピックというのは「準備が大変」であることが再認識された。
ならばいっそのこと、大会前の「設営作業」を競技化してみるのはどうだろうか。
どうせ開会式より前に始まっている競技もあるのだから、もうだいぶ前からやっちゃっても「まあそういうもんか」となるのではないか。

◆五輪新競技例『男子400m鉄骨リレー』

スタジアム建設に必要不可欠な鉄骨を担いで走る100m×4人のリレー。

使用される鉄骨の重量は、重量挙げ、ハンマー投げやり投げ、円盤投げなどの用具重量を参考に決定するが、あくまでも実際の設営に使用する鉄骨を、必要な場所へと届けるのでなければならない。

その際には走力や筋力だけでなく、今回の日本リレー代表が示したように、鉄骨を引き渡す「鉄骨パス」の技術も重要となる。銀メダルに輝いた日本代表のような「アンダーハンドパス」は、その長さと重さからしてさすがに難しいはずだが、各国が切磋琢磨することによって、現場における鉄骨運搬技術の実践的向上も期待できる。

さらには、走りながら運ぶなかで鉄骨をひねる、回す、いったん宙に投げて背面で受け取るなどの技による「技術点」も加味される。それらの技には、体操のひねり技に「シライ」の名がつけられたように、「クマガイ」「カシマ」「オオバヤシ」など、新技を編み出した者の名字が授けられる。

選手の披露した技を採点し、走行の安全性を厳しく見極める審査員は、もちろん現場の親方衆である。審査委員長は現場監督が務める。

唯一の問題は、この「鉄骨リレー」がスタジアム建設における作業工程のひとつであるということ(それはもちろん、この競技のアイデンティティでもあるのだが)。

つまりはいまだスタジアムが建設中の状態であるため、観客を入れることができないという点であり、著しく盛り上がりに欠けることが予想される。やらないほうが良いと思われる。

さらには今回の五輪で、リオのプールが一夜にして真緑に染まったことを考えると、『藻掃除カーリング』という新競技も考案する必要があるかもしれない。


――と、これだけ考えるのも結構面倒くさい作業であった。しかも研究は研究以前の妄想段階で完全な失敗に終わっている。

となればやはり、適当に近所の虫を集めて提出するのが良いのかもしれない。時すでに遅く、ガラスケースの中に蝉の抜け殻ばかりが並ぶことになるとしても。

偉大なる司会者くん

虚偽報告 コラム 短篇小説

日本人選手が多くのメダルを獲得したリオ五輪レスリング競技の影響を受け、人気クイズ番組『世界ふしぎ発見!』でも、マスコット人形を投げ入れる「チャレンジ」制度が導入されることになった。投げ入れられるのはもちろん、偉大なる司会者の偶像としての「スーパーひとしくん人形」である。

明らかな不正解であるにもかかわらず、スーパーひとしくん人形を毎度懲りずに投げ入れる野々村真。ビデオ判定をするまでもなく、彼のチャレンジはすべて失敗に終わる。しかも投げ入れられたひとしくんは、いずれもわざわざ黒柳徹子の席から奪い取ってきたものである。いつの間にやら、フロアはスーパーひとしくんだらけに。

自らの偶像が頻繁に投げつけられ、さらには大量に地面に捨て置かれている。これには、類い稀なる寛大さでその地位を築いてきた司会者の草野仁も、さすがに業を煮やした。彼は収録中であるにもかかわらず、いったん楽屋へと戻ってしまう。しかしパネラーやスタッフ一同が動揺し対応を模索する中、まもなく草野はダッシュでフロアに帰ってくることになる。持ち前の肉体美を誇張するかの如く、レスリングのユニフォームを着用して。

フロアに捨て置かれたスーパーひとしくん人形を次々とガブり、その足を取り、見事にローリングさせていく草野。本来ならば非道を働いた野々村をこそ投げ飛ばすべきところ、けっして出演者には手を出さないのが彼の流儀であり、偉大なる司会者たる所以だ。

ひとしがひとしを投げている。そう、つまり自分との戦い、いや己自身へのたゆまぬチャレンジこそが、トップに立つ者の宿命なのである。

真夏の果実、常温の過失~八百屋の軒先に並んだ不機嫌な果実たちへ~

コラム

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八百屋の軒先に果物が並んでいるのを見ると不安になる。なんのことはない、ごく当たり前の状況である。だからこそ不安なのだ。

そもそも「当たり前の状況」が、いつも確固たる根拠を持っているとは限らない。むしろそれが「当たり前である」という状況にあぐらをかいて、ロクに「そうでなければならない理由」や「より良い別の選択肢」を考えていない場合も多い。「当たり前の状況」と「最適な状況」は、実のところまったくの別物なのである。

夏は暑い。これは言うまでもなく「当たり前の状況」である。八百屋の軒先に果物が並んでいる。これも先述のとおり「当たり前の状況」だ。しかしそれらの組み合わせとなると、どうか。「真夏の炎天下、八百屋の軒先に果物が並んでいる」――これも「よく見かける」という意味ではごく「当たり前の状況」ではある。しかし、本当にそうなのだろうか?

八百屋の軒先に配置されているバナナや桃。あれ、大丈夫なんだろうか? 物によってはところどころ変色して、明らかに傷んでいるように見えることがあるのだが。

たしかに屋根や幌によって、直射日光は当たらないように気を配られているのかもしれない。しかしなにせこの猛暑である。果物に限らず、あらゆる有機物が傷んでも当然なのではないか。ならば冷やしたほうが明らかに、鮮度も安全度も保てるのではないかと。どうせ買って帰ったら、真っ先に冷蔵庫に入れるのだし。もしも家に常温の果物があったら、しばらく待ってでもきっちり冷やしてから食べたいとすら思う。

だがそんなことを考えていると、ふと逆サイドの考えもひょっこり浮かんでくるものだ。「はたして果物にとって、冷やされることは良いことなのか?」と。

そもそも果物の多くは「南国育ち」である。つまり生っているあいだは、暑いところで生きている。いやむしろ彼らは、「暑いところでないと生きられない」のである。少なくとも、冷蔵庫レベルの温度で育つ果物はあまり聴いたことがないような気がする(リンゴくらいか?)。

つまり常温で果物を置く八百屋サイドの考えとしては、彼らを「育った環境と同じような状況に置いてやる」という、育成現場を知っている者ならではの、ある種の「現場感覚」があるのではないか。いわば彼ら果物たちの「ありのままの姿」とは、「冷蔵庫内で人工的に冷やされている状態」などではなく、「常温で太陽のもとにさらされている状態」のほうなのだと。

そういえばよく「なんでも獲れたてがおいしい」と言われるが、もぎたての果物は当然常温であって冷えてはいない。テレビ番組のロケなどでも、もぎたての果物を頬ばる場面がよく映し出されるが、あれもわざわざ冷やしている様子はなく、その場で常温で食べておいしいおいしいと言っている。もちろんそのリアクションは、レポーターの匙加減ひとつとはいえ。

さて、こうなるとますますわからなくなってきた。果物にとっての「適温」というものが。普通に考えれば、果物に限らず生きている状態では温かく、死んでいる状態では冷たいのが良しとされるのかもしれない。そう、果物はそもそも、「もぎ取られた時点ですでに死んでいる」のだ。ケンシロウに言われるまでもなく。

しかし果物の場合ここでさらに、熟す(追熟)という「死後の成長プロセス」があるため、事態はいっそう紛らわしくなる。獲れたての状態よりも、しばらく常温で放置しておいたほうが甘くなるというあれである。軒先に果物をさらす八百屋は、あるいはこれを狙っているのかもしれない。しかし店によっては見るからに傷んでいるものが混ざっているのも事実で、それはもちろん、店側の管理体制の問題、ということになってくるのだが。

そしてこうやって書いてきて改めて思うのは、「常温」という言葉の心もとなさだ。いったいそれが何度なのか、全然わからない。そしてどうやら地球温暖化によって、我々の中にある「常温」の感覚も、相当に変化しているらしい。昭和の八百屋の軒先の温度と、アスファルトとエアコン室外機に囲まれたいまの八百屋の軒先の温度は、間違いなく同じではない。もしも前者を「常温」とするならば、後者はすでに「常温」の範疇を、はるかに超えているのかもしれないではないか。

むかしの「当たり前」がいまの「当たり前」としてふさわしくない可能性は、いつだってある。そんなことを考えながら、今日も果汁0%の炭酸飲料を飲んでいる。

捨てる神に拾う神、その他の神も様々にあり

コラム 短篇小説 虚偽報告

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「捨てる神あれば拾う神あり」とことわざにあるが、むろん両者の数が同じであるとは限らない。事実、近年は「拾う神」の減少(少神化)が叫ばれている。捨てて身軽になる神ばかり多くて、「拾う神」はいつも両手いっぱいに人間を抱えて歩いている。これではますます「拾う神」になりたがる者が減るのは、当然のなりゆきと言うほかない。

ちなみにことわざには「捨てる神」と「拾う神」しか出てこないが、当然そのあいだにも中間業者的な神々が存在している。神の世界は意外とお役所的な縦割りで、役割分担が細かいのである。

何事につけ「エコ」な世の中である。まず「捨てる神」は人を捨てる際に、当然それらを分別した上でしかるべき場所に運んで捨てなければならない。つまりそこには「分別する神」と「運ぶ神」がいる。その際、分別がわかりやすいように「捨てられ人(びと)」にはカラフルなステッカーを貼ることになっているから、「ステッカーを発注する神」「ステッカーをデザインする神」「ステッカーを印刷する神」「ステッカーを検品する神」「ステッカーを貼る神」「ステッカーを貼り直す神」などステッカー関連の神は意外と多い。

「分別する神」が慎重に分別した結果、「捨てられ人」の中にはまだまだ再利用可能と認められ、緑色の「リサイクルステッカー」を貼られる人もいる。その場合は「磨く神」の元へと送られ、各種ヤスリで徹底的に磨かれる。その後はもちろん、「洗う神」「拭く神」「乾かす神」「保湿クリームを塗る神」らによって丁寧に再利用できる状態にまで仕上げられることになる。ネットオークションや『HUMAN OFF』で売られている「捨てられ人」の多くは、このようなプロセスを経て出品される。

「拾う神」は人をただ拾うだけだから、今となっては「拾う神」に拾われるよりも、こうして各種神々によって再生され売りに出されたほうが、結果として世のため人のためになり幸せをつかめる、との意見も出はじめている。数が不足している「拾う神」はただでさえ個々に多くの案件を抱えているため、拾った人々のメンテや売り出しに時間を割く暇など皆無なのである。

かくして「拾う神」の一般的評価は下落し、なり手も減少するという悪循環が生まれている。しかしそれは同時に、全体のリサイクル化が進んだ結果として、「捨てられ人」の多くが「拾う神」に拾われる前に救われているということを意味する。

一方でいま神界に起こっている本当の問題は、むしろリサイクルの過程で中間的な神々が乱立しているという「多神化」のほうである。世間では、ことわざで著名な「拾う神」の減少による「少神化」が話題となっているが、その裏では先に挙げたような「ステッカーを貼り直す神」や「保湿クリームを塗る神」などの中間業者たちがとんでもない勢いで増殖しているのである。そしてそんな中間的な神々の多くは、非正規の神である。

これが誰もが軽々しく口にする、ことわざの現状である。激動の時代を迎えた捨てる神と拾う神の周辺から、しばらく目が離せそうにない。

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