泣きながら一気に書きました

妄言コラムと気儘批評と悪戯短篇小説の巣窟

短篇小説「括弧つける男」

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 ある冬の朝、佐藤(初)が自宅(狭)のキッチン(雑)で朝食のトマト(赤)を切っていると、玄関の外(寒)から唐突に悲鳴(叫)が聞こえてきた(耳)のだった。

 彼の家こそ狭いアパート(泣)ではあるものの、そこは閑静(黙)な住宅街(贅)。普段は二日酔い(揺)の酔っぱらいが通りがかり(歩)に奇声(怪)を発する(狂)こともなく、朝っぱらから悲鳴(叫)とは、なんとも珍しい(妙)一日のはじまり(鬱)であった。

 だが叫び声(高)を聴いたからといって、即座に家(小)を飛び出すほど佐藤(初)も馬鹿(単)ではない。自らのリスク(失)とリターン(得)を計上しないほど、彼もお人好しではないのである(鬼)。悲鳴(叫)はたった一度(限)だけあがり、その後にはいつも通りの静寂(山)が訪れた。

 彼はいったん調理(拙)を中断(諦)し、五分ほど息を潜める(隠)ことにした。誰か近所の人(勇)が助けに入ったタイミング(狡)を見計らって、野次馬(覗)のひとりとしてその場に参戦(眺)しようと考えていた。

 しかしあれだけ高らか(烈)に響き渡った悲鳴(叫)にもかかわらず、五分経っても(長)誰ひとり駆けつける(馬)様子はなかった。佐藤(初)が忍び足(秘)で玄関(冷)へと辿りつき、曇ったドアスコープ(穿)から外を覗いて(盗)みると、道(黒)に誰か人(病)が倒れているわけでもない。

 すでに危機感(薄)を好奇心(濃)が追い越した佐藤(初)は、そっとドア(茶)を開けサンダル履き(安)で外(寒)へ出た。アパートの前の道(黒)にはやはり誰もおらず(空)、彼は道を左に曲がった奥(陰)にあるゴミ捨て場(汚)のほうから歩いてきた近所のマダム(紫)と挨拶(囁)を交わした。

 佐藤(初)は何事もなかった(穏)ことに安堵しつつ自室(狭)へ戻りかけたところで、ふと気になって(浮)振り返って(翻)見ると、遠ざかってゆくマダムの後ろ手(尻)に裸の包丁(閃)が握られているのが見えた。

 彼が聴いた(耳)のは、マダム(紫)の心の中の悲鳴(叫)であったのかもしれないし、彼が切り刻んだトマト(赤)の内なる悲鳴(叫)であったのかもしれない。どちらかは幻(虚)で、どちらかは幻ではない(実)だろう。


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耳毛に憧れたって駄目―悪戯短篇小説集 (虚実空転文庫)

耳毛に憧れたって駄目―悪戯短篇小説集 (虚実空転文庫)

書評『フェルディドゥルケ』/W. ゴンブローヴィッチ

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とにかく徹頭徹尾ふざけまくっている小説である。この小説を真顔で読み終えることのできる人は、人生のあらゆる局面で「もっともらしい」人や物に騙されている可能性が高いので充分に気をつけたほうがいい。もちろん極度の「悪ふざけ」と極度の「生真面目」は、いつだって通底しているのだが。

これは世の中の常識に対抗するやけっぱちの文学であり、20世紀版『地下室の手記』(ドストエフスキー)である。全編が「何やってんだコイツ」のオンパレードであるという意味で。

こういう過剰性に満ちた小説を飲み込むと、巷でよく言われる「共感」というのは、なんて狭苦しい感動なのかと思う。小説に限らずエンターテインメントを選ぶ際に、「共感できるかどうか」を鍵にチョイスする向きは多い。

むろんそれは入口程度にはなり得るとは思うが、「共感」だけではなんとも底が浅い。「共感」とはつまり、「作品の中に今の自分(=読者)と同程度の感覚が存在している」というだけであって、言ってしまえば「今の自分が持っている以上のものが作中には存在していない」ということになるからである。

それはすでに知っている感覚を再確認する「確かめ算」を、わざわざ行って安心しているだけだ。そこには刺激も発見もない。学生時代に算数や数学のテストを受けるたび、教師に「余った時間で確かめ算をしなさい」と頻繁に言われたものだが、あれほど退屈な作業はなかった。だが大人になると、ただ自分の現状に安心を得たいがために、確かめ算をやりたがる人間が増える。

それは真面目なのではなく、むしろ発見をサボり続ける不真面目な態度である。そういった了見の狭い「大人」には、この人間の未熟さを追求し続ける小説は、まったく響かないだろう。だが「共感」よりも「違和感」の中にこそ楽しみを見出せる人にとっては、これほど面白い作品は滅多に存在しない。

ある日、三十男である主人公が、叔父の強引な導きによって十代の学生が通う学校に突如編入させられる。そこで学生間の派閥争いに、つまりはヤンキーと優等生の幼稚な闘争に巻き込まれるわけだが、その決着をつける手段が謎の「にらめっこ大会」というわけのわからなさ。

いや実際のところ、読んでみるとそこまでわけがわからないというわけでもない。「共感はできないけど気持ちはわからないでもない」という、絶妙にギリギリのラインに踏みとどまっている。人間は、共感できないことでも理解することはできる。

さらにそんな主人公周りの学生生活を描くメインストーリーの合間には、関係がありそうでないような、なさそうでありそうな別の話が組み込まれ、また作者の趣旨説明までが無遠慮に挟まってくるというトリッキーな構造になっている。ここでも著者は、小説を小説たらしめるディフェンスラインギリギリに至るまで、小説という枠組みを攻めたてているように見える。

しかしこれらの脇道がそれはそれでまた面白く、単なる構造的な実験に終わっていないのが本作にねじれた深味を与えている。たとえば「子供に裏うちされたフィリベルト」という、本編とはまったく異なる登場人物と背景によるテニス世界選手権のシーン。そこでは観客席の大佐が空中を飛び交うボールを銃で撃ち抜くという謎の行動を起こし、その後の混沌とした状況下における不可解な現象が以下のように描かれる。

その刹那、これまで一部始終をつぶさに近くで目撃させられるはめとなった一紳士が、この惨状にいたたまれず、自分より、一段、低い席のとある婦人の頭に狂ったように跳びおりたのであったが、この婦人がなんとまたその拍子に立ちあがると、頭に紳士をのせたまま、全速力でコートに跳びだしたのである。

そしてこの謎の行為は、どういうわけか会場全体に伝播してゆくことになるのだが、これぞまさに「何やってんだコイツ」と言うほかない、事実らしく見せようという調整がまったく感じられないシーンである。

普通に考えれば、こんなことはどう考えても物理レベルであり得ないわけで、ここにはリアリティなど欠片もないように思える。しかしそこで表面的な行為ではなく、その裏にある精神的な動きに目を向けるならば、ここにはむしろ圧倒的なリアリティが隠されているように感じられるのである。

その映像的なバカバカしさに呵呵と笑いつつも、その向こう側に人間が捕らわれがちな因果律が透けて見えてくることに、思いがけずドキリとさせられやしないか。滑稽な言動が不意に真実のど真ん中を射抜く鋭さを隠し持っていることを、改めて痛感させられる。

本作はドストエフスキーが卑屈文学の名作『地下室の手記』において、自らの弱点を「こじらせてやれ!」と叫んだあの八方破れなやけっぱちの精神を、文字通りさらにこじらせた果てに浮かんでいる。これぞまさに滑稽純文学の極みである。


フェルディドゥルケ (平凡社ライブラリー)

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餃子を相殺する方法

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「相殺」という画期的なシステムを、生活に取り入れてみることにした。

ことの起こりはこうだ。近所に、以前から入ってみたいと思っていた餃子屋があった。しかしひとりで入って餃子とライスだけ食って出てくるのは、なんとなく申し訳がない。どうやら世の中的には、「餃子にはビール」ということになっているようだからである。ちゃんと見ていないが、なんとなくみんなビール片手に餃子を食しているように見える。ちゃんと見ていないのだが。

僕は酒が飲めないから、ビールはどちらかというと敵である。飲むと気分が悪くなるものが敵でないはずがない。他人が飲むぶんには構わない。ちなみに麦酒でなく麦茶ならば味方だ。麦に罪はない。パンとか毎朝食うし。

そんなことはどうでもいい。ついに僕は「餃子屋でビールを頼まない」という強い覚悟を持って、ひとり餃子屋に入店した。ふたりで来て、片方がビールを飲まないという状態は自然であるように思う。しかしひとりで来た客が、ビールを頼まないというのがどれほどのものか。見極めてやろうじゃないか。

勧められた席に着席すると、メニューを見る前に「餃子何皿いきますか?」と店員に訪ねられいきなり焦った。そうだここは餃子屋なのだった。客がメニューを見なくとも、餃子を頼むに決まっていると店員は踏んでいるのだ。そして餃子屋を名乗っているからには、彼には当然そう決めつける権利がある。

僕はとっさに「あ、じゃあ一皿で」と答えた。「じゃあ」と受け身な言葉を放った時点ですでに負けなような気もするが、ならばとこちらも攻めに転じて「ライスもお願いします」と即座に切り返した。そして店員は待った。ふた呼吸くらい待った。その二吸い&二吐きは当然、「あとビールも」と来ると待ち受けている「間(ま)」である。

しかし僕はそこで注文を打ち切った。なぜならば僕はビールが飲めないうえに、ここはビール屋ではないからである。当然の権利を行使したというほかない。すると店員はいったん厨房に餃子一皿とライスの注文を伝えてから、思い出したように戻ってきて「あ、水でいいですか?」と訊いてきた。親切な店員である。僕は「はい」と答えた。すぐに水が来た。大ジョッキで。

完全にビールの想定じゃないか。「側」だけビール。こんなに大量の水、飲めるはずがない。そこに某かのメッセージを感じつつ、僕は餃子を待った。しばし待ったところで、餃子が来てライスが来た。その横には水のたらふく入った大ジョッキが鎮座している。

この店の餃子は、肉汁餃子と書いてあるから滲み出す肉汁が売りらしい。もちろん気をつけてはいた。だからひと口ではいかなかった。

だが半口で噛み切ったその裂け目から、親の仇敵のように大量の肉汁が口腔内へと流入してきた。美味かった。しかし熱かった。そのマグマに口内を蹂躙された。案、そして定、つまり案の定である。秀吉による備中高松城水攻めを思い出した。どこであれ液体は逃げ場を奪う。

幸い口内の火傷被害はたいしたものではなかったが、勘定を済ませ家に帰る途中、僕はこの餃子に対する恐怖をなんらかの形で払拭しておく必要があると思い立った。次にまた餃子を美味しくかつ安全に食するために。

あるイメージを払拭するためには、正反対のイメージで上書きすれば良い。そう、つまり「相殺」という手法である。僕は家に着くとそそくさと冷蔵庫に向かい、冷凍庫から買い置きしてあった冷凍餃子を取り出すと、それをしばし眺めたうえでスマホで撮影。それら一連の行為により、灼熱餃子のイメージを冷凍餃子で冷却し「相殺」することに成功した。

おかげで、餃子の安全性が脳内で再認識されたような気がする。ただしそのせいで、「灼熱」と「冷凍」のちょうど中間地点にある「常温」あたりの位置で餃子のイメージが定着してしまい、常温の餃子はあまり美味くないような気がした。となると餃子のイメージを若干レンジでチンする必要があるかもしれないと思い、レンジの蓋を開けそこへ頭を突っ込もうかと考えているところ。


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