泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

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短篇小説「行間の多い料理店」

 この世でもっとも味気ない読みものは、情報を伝えるためだけに存在する文章だ。その代表と言えるのが一覧表の類であり、場所が料理店であれば、それはメニューと呼ばれることになる。

 私が先日初めて訪れたレストランにも、当然メニューというものがあった。私はオフィス近くの路地裏にあるその店が、以前からなんとなく気になっていた。それはなによりもまず、その店頭に張り出した赤い日よけにプリントされている、奇妙な店名のせいであった。

〈レスト

 ラン〉

 それ以外に文字が記されていない以上、これが店名のすべてということになる。このシンプル極まりないフレーズは、明らかに一行で収められる横幅に二行で、いやその行間を律儀にカウントするならば三行に渡って印字されていた。

 だが私はそこに、業態を示す普通名詞をそのまま店名にしてしまっている大胆さ、いい加減さを感じつつも、同時にある種の期待を抱いてもいた。なぜならば〈レストラン〉という普通名詞は、そもそもがパリに実在した『レストラン』という一個の店名を由来とするものであるからだ。

 つまりこの店には、〈レストラン〉の語源となった『レストラン』にも匹敵する、オリジナリティがあるに違いない。少なくとも店主には、その大きな名前に負けないほどの、自信があるということだろう。あるいは単に、名づけるのが面倒になったという可能性も、大いにあるわけだが。

 私は意を決して店内へ足を踏み入れると、まだ夕食には早い時間であるせいか、店内は見事にガラガラであった。際立ってそのように感じられたのは、単に客が私ひとりであったせいではなく、テーブルとテーブルとの間隔が、妙に広く空けられた配置になっているせいかもしれなかった。この店では四人掛けの席でさえ、テーブルは四分割され、それぞれに隙間を空けて置かれているのだった。

 そこへウェイターとも店主とも見えるエプロン姿の男が現れ、そのテーブル席の一角へと私を案内した。それは眉毛と目の間隔の広さが印象的な、終始きょとんとした顔の男であった。

 男は奥から水と革張りのメニューを持ってくると、私の席の脇へつかず離れず、適切な距離を置いて立っていた。その状態を窮屈に感じた私が、「決まったら呼びますので」と言うと、男は「はい」と頷いたうえでそのままそこへ立ち続けた。それはたしかに、「向こうへ行ってくれ」と強く要求できるほど間近な距離ではないが、注文を聴き取れる距離ではあるように思われた。

 だが男に注文を急かす意図はないということなのだろう。私はそれでもなんらかの圧を感じながらも、やはりその革の表紙に、

〈レスト

 ラン〉

 と箔押しされているメニューを手に取って開いてみることにした。

 メニューの中身もまた、行と行のあいだに充分な間隔を空けて記載されていたのは、ここまで来ればもはや想定内と言うべきだろう。私はワインを頼もうと思ってドリンクのページを眺めてみたが、空間の多いそこに選択肢はひとつしか見あたらなかった。

〈味は

 悪くないワイン〉

 そこにはただそう書かれていた。書き入れるスペースならば周辺にいくらでもあるが、説明書きの類は一切なかった。

「これは……?」私はメニューを指さして、脇に立つ男に尋ねた。男が腰を屈めて顔をぐっと近づけてくる。

「かしこまりました」男が注文票にペンを走らせた。

「……あ、注文じゃなくて」私は慌ててクーリングオフを申請した。

「じゃなくて?」男は不思議そうな顔で返してくるが、そう言ってしまえば最初から眉は上がりきっていたから、ずっと不思議そうな顔はしていた。私は改めて訊いた。

「何が悪いんです?」
「何がというのは、何がです?」
「味は、悪くないんですよね? ワインの」
「左様でございます」
「じゃあ、何が悪いんです?」
「とにかく、臭いんです」男は悪びれずに言った。「ですが、味は悪くありません。むしろ美味しいくらいですよ」

 弱点を自ら積極的に認められてしまうと、反論するのは難しいものだ。むしろ短所を潔く自白したぶんだけ、自称しているだけに過ぎぬ長所のほうも、自動的に説得力を増してくるように感じられる。私はそのままワインを注文し、再びメニューに視線を落とした。ページをめくると、フードメニューのほうにはいくつか選択肢があるようだった。

〈美味しそうな

 マリネ〉

「美味しくは、ないんですか?」私はメニューをZ形になぞりながら訊いた。

「味覚は、人それぞれですから」男は、揺るぎない真理を語るように言った。それを言ったら、美味しそうか美味しそうじゃないかも、人それぞれだろう。「ですが、そちらのマリネに関しましては、『美味しそうじゃないねぇ』とは、一度たりとも言われたことがございませんので」

 私はだんだん、男が客の脇にずっと構えている理由が、わかってきたような気がした。

〈行列のできた

 ナポリタン〉

 私はその過去形をメニューに見つけたとき、にわかに哀しみが湧いてくるのに気づいた。

「いまは……?」
「先ほど、並んだ記憶はございますか?」

 この男は、そしてこの店は、単にもの凄く正直なだけなのかもしれない。何やら匂わせるような、思わせぶりな品目名の行間に空いたスペースには、本来ならば客に知らせる必要のない、誠実な情報が間違いなく記されているように、私には思えてくるのだった。

 私はワインに加えてマリネとナポリタンを頼んだうえに、メニューの最下段に構えていた、

〈ロスト

 ビーフ

 を最後に頼んだ。これは単に、「ローストビーフ」の「ー」がひとつ抜けた誤植だと判断し、わざわざそれをこれ見よがしに指摘することはしなかった。

 やがてワインと料理が届けられると、いずれも私にとってはメニューの文言とも男の説明とも違わぬ、文字どおりの味であった。

 ワインは美味いがたしかにひどい腐敗臭がして、鼻をつまんで飲む必要があった。だがそのおかげで、そうして嗅覚を失ってもなお感じられる美味さというものがあることを知った。

 マリネはたしかにすこぶる美味しそうに見えたが、口に入れてみると期待はずれも甚だしかった。しかしひと口めを咀嚼したころには、記憶喪失にでもなったのかまた美味しそうに見えてきて、ついふた口目に手が伸びてしまうのだった。

 そしてナポリタンは、かつて店の前に長い行列ができていたことをありありと思い浮かべさせられる、心底懐かしい味であった。であると同時に、それが過去の栄光でしかない哀しみも、如実に感じられるのであった。

 これまでの人生でナポリタンなど一度も食したことがないにもかかわらず、なぜか涙を浮かべながらそれを食べ終えた私のテーブルに、男の手によって最後のひと皿が運ばれてきた。

「ロストビーフでございます」男は間違いなくハッキリと、そう言った。

「どこに?」私はそう問いただすほかなかった。なぜならば、少なくとも目の前の皿の上には、ビーフがいなかったからだ。それどころか、本当に何もいない。ただの白い皿であった。

「あの、だからローストビーフは……?」
「ロストビーフ、でございます」
「それ、誤植ですよね。ロストじゃなくて、ロースト――」
「いえ、ロストビーフ、でございます」
「それじゃあなんだか、仔牛が迷子になってるみたいですよ」
「はい、ロストビーフ、でございます。行間で」
「行間? つまりその、あえていったん仔牛を迷子にさせてから、ちゃんと帰ってきた賢くて強靱な仔牛だけを育てたとか? いわゆるカムバックサーモン的な?」
「いえ、依然として絶賛ロスト中のビーフ、でございます」
「まさか、永遠の迷子に……」
「どうぞ失われたビーフを、ご堪能あれ!」


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