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短篇小説「来店ルーティーン」

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 泣ける曲を口ずさんでいる男が街角を歩いていると、本当は喫茶店をやりたかった八百屋の前でいつもニヤニヤしている男と出会った。泣ける曲を口ずさんでいる男といつもニヤニヤしている男は中学時代の同級生であったが、特に仲が良いわけではない。

「やあ、久しぶりだね(ニヤニヤ)」

 いつもニヤニヤしている男はこのときもやはりニヤニヤしていた。もちろん泣ける曲をくちずさんでいる男も、泣ける曲を口ずさんでいたからこそそう呼ばれている。二人は十年ぶりに出会ったが、十年前に偶然遭遇したときも二人はその状態だった。だから泣ける曲を口ずさんでいる男は、いつも泣ける曲を口ずさんでいる男と言ってもいいかもしれない。これからはそうしよう。

 いつも泣ける曲を口ずさんでいる男は泣ける曲を引き続き口ずさんでいたので、いつもニヤニヤしている男の挨拶はよく聞こえなかった。彼が単に泣ける曲を口ずさんでいる男ならば、ここで都合よく歌うことをやめて会話に入ってもいいのだが、ちょうどさっきいつも泣ける曲を口ずさんでいる男に改名してしまったせいで、彼は片時も泣ける曲を口ずさむことを止めることができない。

 二人が立ち止まっている本当は喫茶店をやりたかった八百屋の隣には、どちらかというと八百屋をやりたかった喫茶店があって、二人はなんとなくそこへ入ることにした。

 どちらかというと八百屋をやりたかった喫茶店の店主は、本当は喫茶店をやりたかった八百屋が喫茶店をやりたかったほどには八百屋をやりたかったわけではなくて、あくまでもどちらかといえばあっちのほうがいいな、くらいのささやかなやりたさであった。

 それに対して、本当は喫茶店をやりたかった八百屋のやりたさは本気の本気だったから、隣りあうこの二店舗のあいだには、本当は喫茶店をやりたかった八百屋が、どちらかというと八百屋をやりたかった喫茶店に対して激しい嫉妬心を燃やすという、わりと一方的な関係が成立していた。

 二人の男が隣の、どちらかというと八百屋をやりたかった喫茶店に入ってゆく背中を見届けながら、本当は喫茶店をやりたかった八百屋は舌打ちをして軒先のトマトをきゅうりで殴りつけた。そのときから、本当は喫茶店をやりたかった八百屋はトマトをきゅうりで殴りつける八百屋になった。

 いつも泣ける曲をくちずさんでいる男といつもニヤニヤしている男が、どちらかというと八百屋をやりたかった喫茶店に入ったのは、なんとなくのようでいてなんとなくではなかったのかもしれなかった。

 二人がどちらかというと八百屋をやりたかった喫茶店の前で立ち止まったそのとき、いつも泣ける曲をくちずさんでいる男の口ずさんでいる歌詞は、ちょうどコーヒーにまつわる内容を歌う箇所に差しかかるところだった。そしていつもニヤニヤしている男は、それを聴いているのか否かは定かでないものの、やはり依然としてニヤニヤしていたことから、いちおうそれを「誘いに対する同意」と互いに捉えることもできたかもしれない。

 どちらかというと八百屋をやりたかった喫茶店に入った二人の男は、いずれも店主の努力次第でもっと美味しく入れられるはずのブレンドコーヒーを頼んだ。どちらかというと八百屋をやりたかった喫茶店の店主は、どちらかというと喫茶店よりは八百屋をやりたかったから、少し喫茶店としての企業努力が足りないのだった。

 いつも泣ける曲を口ずさんでいる男は、泣ける曲を口ずさみながら、つまりは息を吐きながらコーヒーを飲むことに苦労していた。一方でいつもニヤニヤしている男のほうも、ニヤニヤしたままコーヒーを飲むことに四苦八苦。結果、ふたりとも大量の液体をみっともなくこぼすことになり、テーブルはコーヒーの海となった。

 テーブルに収まりきらぬ液体の流出は、やがて隣席にいた海が好きすぎて死にそうなサーファーの足元にまで及んだ。事態に気づいた海が好きすぎて死にそうなサーファーはいてもたってもいられず、テーブルに置いてあった食卓塩を手に取ると、「やっぱり海はこうでなくっちゃ」と言いながら、こぼれ出したコーヒー全体にまんべんなく塩を振りはじめた。

 こうしてどちらかというと八百屋をやりたかった喫茶店に、「塩コーヒー」という新メニューが誕生した。だけどやはり店主はどちらかというと八百屋をやりたかったから、新メニューの研究も自然とおろそかになりいっこうに美味しくはならなかった。隣の本当は喫茶店をやりたかった八百屋改めトマトをきゅうりで殴りつける八百屋のスイングスピードが、いっそう強くなった。


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