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短篇小説「命に別条」

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 ある朝、男が工事現場の脇を歩いていると頭上から大量の鉄骨が降臨、その頭部を直撃するという事故が起きた。だが幸運なことに、この日初陣を飾った一張羅のカツラこそ飛び立ったものの、男の命に別条はなかった。別条がないというのは良いことである。

 クロスした鉄骨の合間からひょっこり顔を出した男はまるで別人の様相であったが、なにしろ命に別条はない。しかし残念なことに、頭部から離脱したカツラが複雑に絡みあう鉄骨の間に挟まってしまっている。それは絶妙に男の手の届かない位置にあった。カツラに別条がないといいのだが。

 にわかに青空へ黒雲を運び込む風が、不幸中の幸いか不幸中の不幸か、そこへ一匹の野良犬を連れてきた。犬は平均台の要領で、鉄骨の上を悠然と渡り男に近づいてゆくように見えた。男はジャケットの裾を鉄骨に挟まれているため、いまだ身動きが取れずにいた。ジャケットに別条がないといい。

 だが真っすぐ男に向かうかと思われた犬は、途中で新たな黒い標的を発見すると、即座に方向転換を決め込んだ。そして待望のカツラを手に入れると、犬は新品のカツラを縦横無尽に舐めまわしはじめた。とはいえ歯は立てていないので、いまだカツラに別条はない。

 やがて早朝の轟音に驚き駆けつけたひとりの主婦が、ヘルメット代わりにポリバケツをかぶって現場へ救出に向かった。大学時代は探検部で数々の山や洞窟を制覇した彼女ならではの、とても勇気ある行動であった。風が、強くなった。

 彼女は頻繁にずり落ちてくるバケツに視界を遮られながらも鉄骨の海を渡り、野良犬の尻尾を谷村新司のように掴んだ。犬の尻尾を思いきり引っ張ることで、犬がくわえている男をもセットで引き上げる作戦であった。

 それは彼女にとって、あまりにも美しい構図だった。鉄骨に埋もれた男を賢い犬が助け、その犬と男を私がいっぺんに助けようとしている。通りがかりの有志が力を合わせ、うんとこしょ&どっこいしょ。これはまるで、昨晩寝床で息子に読み聞かせてやった『おおきなかぶ』みたいな話じゃあないの! 抜けたカブの下には、「スタッフ全員でおいしくいただきました」のテロップをお願い。

 それはさておき、少なくとも彼女の目には、野良犬がカツラをこれでもかと舐めまわすその姿が、災害救助犬が人間を助け出そうとする健気な風景に見えていたのである。バケツに視野を制限され、現場が詳細には見えていなかったという物理的障害も少なからずあるが、やはり「犬が人を助けている」という心温まる物語の力と、前夜に読んだ『おおきなかぶ』の影響力は甚大であった。

 おかげで、どちらかといえばむしろかぶに近い質感であるはずの、禿げあがった男の頭部が彼女の視野に入り込むチャンスは残念ながら皆無であった。なぜならばそこらへんに転がっているおっさんの禿げ頭は、犬が人を助けるというこの美談にはいっさい必要がなかったからである。男はすぐ脇でずっと声をあげていたというのに。その頭にはかぶに負けず劣らず、リアルに少量の土さえ付着させていたというのに!

 そうして主婦が勢いよく野良犬とカツラのハッピーセットを引っ張りあげると、まるでそれが何らかのスイッチであったかのように、頭上からさらに大量の何かが轟音とともに降り注いできた。さながら旧式和式便所のひもを、ずいと引っ張るような案配で。

 だが降りかかってきたのは幸いなことにさらなる鉄骨ではなく、朝方には珍しいゲリラ豪雨であった。男はこんなときカツラをかぶってさえいたらなあと思い、犬はこの舐めまわしている物体でなんとか雨宿りできぬものかと思い、主婦はバケツをかぶっていて良かったと思った。

 つまりいずれも、命に別条はなかったということになる。


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