泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

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悪戯短篇小説「故事らせ恋物語」

恋のはじまりは目薬だった。

煎じて飲むための爪垢収集にしばし熱中していた故彦(ゆえひこ)は、その細かな作業のせいで七度転んだり八回転げたりするほどではない疲れをその目の奥にじんわりと感じたので、目薬を注すことにした。

思いがけず降り続けることで大量の無抵抗な河童を川から海へと流した雨上がりの青空を存分に眺めたかった故彦は、おもむろにマンションの二階にあるベランダに出ると、手すりに身を任せて大きくのけぞった。「青空を見ながら目薬を注す」という、一つの石で二羽の鳥を撃ち落とすような願いを叶えるためであった。その上方に開けた視界には、ベランダの前にそびえ立つ大木から、今にも猿が落ちようとしている様子が逆さまに映った。

危なっかしい猿の動向が気になったせいかもしれない。さらにその脇には、どのようにおだてられて登ってきたのか、真珠を身につけた豚もいた。犬と猿は仲が悪いと言うが、犬と豚だとどうなのか。気を削がれた故彦の手から放たれた目薬の一滴は、ベランダからあお向けに乗り出した彼の目をはずれ、真下の道路に向けて落下した。書道が得意な坊さんも筆を誤ることがあるというが、故彦は別に目薬を注すのが得意なわけではないからはずすことは特に珍しくもない。落ちたのは猿ではなく目薬のほうだった。

ちょうどその下の道を歩いている女がいた。犬を散歩させていた事美(ことみ)である。近所に住んではいるが故彦と面識はない。そのまま通過していれば、袖をすり合うような縁もここにはなかっただろう。だがその直前、連れている愛犬が道に落ちている木の棒に当たったため、彼女はしばし立ち止まっていた。

その棒は、木の上の猿が枝を揺すって落としたものだった。本当はその枝から爪楊枝を削り出して、本当はお腹が減っているのに食べるのを我慢して高飛車に爪楊枝でシーハ−する武士を気取りたかったが、猿にそこまでの器用さはなく、手を滑らせて落っことしてしまったのである。そもそも猿は武士ではないし、食べるのを我慢するのも無理な話だった。

事美も青空が好きだった。餅に青空の絵を描くほどに。故彦の真下に立ち止まっていた事美もまた、青空を見上げていた。

その大きく見開かれた右の瞳に、青天から霹靂が落ちてきた。二階からの目薬であった。結構滲みるタイプのやつだったので事美は「キャッ」と声をあげたが、その刺激は喉元を過ぎれば熱さを忘れるように一瞬で過ぎ去り、旅立つ鳥が思いがけず後片づけをちゃんとしていったような爽快感だけが目に残った。

小さな叫び声を聞いた故彦は、疾きこと風の如く階段を駆け下りて事美のもとへ向かった。目薬を喰らわせたお詫びにお茶に誘うと、事美はしずかなること林の如き沈黙と、動かざるごと山の如き間を置いたのち、侵掠すること火の如く近所の喫茶店へと駆け込んだ。

慌てて故彦と犬が後を追って喫茶店へ入ると、事美はカウンターに寝そべって大胆に腹を出し、へそで茶を沸かしているところだった。ついでなので故彦は、事美のへその上で沸騰しかけている土瓶に、さっき集めてフリスクのケースに入れておいた爪の垢を投入し、煎じて飲むことにした。

ことわざがふたつも入ったお茶は、すこぶる不味かった。ふたりでそれを飲みながら「やっぱり不味いね」と言って笑いあった。恋はそうしてはじまった。

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