泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

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雨の日に水を

雨の日に植木に水をやっていると狂人だと思われるような気がしてならない。

植木は雨のあたらない場所にあるから天気にかかわらず水をやる必要があるのだが、通りがかる人にいちいちその事情を説明して聴かせるわけにはいかない。それこそ狂人だと思われる。

「雨なのに、ねえ」通りがかりの人が言う。
「とはいえ、ねえ」私にはそれくらいしか言えない。

もちろん、どちらの台詞も現実には発せられていない。

雨の日に色眼鏡を掛けているときにも、なにか阿呆だと思われているんじゃないかと感じる。

これは度つきの眼鏡であって、しかも今日はたまたまコンタクトレンズのフィット感がどうにも悪く、仕方なく色眼鏡で出かけているだけなのに、もちろんそんな説明など誰も聴いてはくれない。さらに言えば家用の、色の入っていない普通の眼鏡は、経年劣化が激しくつるの部分がすすけているので外には出せない、というのっぴきならない事情もある。

今どき雨の日どころか夜に色眼鏡やグラサンを恬然と掛けて外出する向きも少なくないが、それは皆なんらかの覚悟を持ってやっていることだろう。鈴木雅之からもチャゲからもそういった覚悟を感じる。言い切ると嘘になる。

一方こちらはなんの覚悟もなく、時に色眼鏡を掛けなくてはいけない。なんの覚悟もなく、若気の至りのみで色眼鏡なんぞ買うからそういうことになる。気恥ずかしくてたまにしか掛けないものだから、逆に長持ちしてしまい今も現役でいる。

いかにも逆説的だがそういうことはわりとある。たまにしか聴かないが、何年かに一度必ず聴きたくなる音楽作品というのがある。人生の節目にだけ読みたくなる本というのもある。それは不思議なことに、人生の節目以外には特に読みたいとは思わぬ本なのである。

本にも音楽にも、どうやら読まれるべき、聴かれるべき時期というものがある。それは当然人によって異なるのだが、自分にとってその時期がいつなのかは、誰も教えてくれない。

そしてそれはおそらく、砂漠に水をやるような、単純な需要と供給の関係でもない。雨の日に水をやるように、一見需要のなさそうなものこそが、実は必要なタイミングというのもあるのではないか。

今年の大河ドラマ軍師官兵衛』の主人公である黒田官兵衛は、その晩年に「黒田如水」と名乗った。その流れで、司馬遼太郎の『播磨灘物語』を再読している。初めて読んだのは、大学生の頃だった。この本も、「人生の節目にだけ読みたくなる本」なのかもしれない。いや単純に、大河ドラマの影響というだけの、至極ミーハーなタイミングでしかないような気もするが。実際に先ほど「その流れで」と書いてしまったではないか。そもそも今が節目なのかどうかもわからない。

播磨灘物語』で描かれる官兵衛に接すると、水を必要としている人たちにはもちろん、表面的には充分に潤っているように見える人の中にすらも、その心の底に致命的な乾きを見出し、そこへ水を滲み込ませてゆくような、そんな稀代の洞察力の持ち主であったのではないかと思う。反面、まさしく水の如きつかみどころのなさもあって、そこがまた魅力的に映る。人間の体の六割は水であるらしい。

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