泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

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『DREAM THEATER』/DREAM THEATER

一聴した印象はすこぶる良い。しかし繰り返し聴くたび、少しずつ物足りなさが積み重なってゆく。そういう不思議な作品。これはおそらくこの作品が持つ「明快さ」と関係がある。「明快さ」にも悪い面はある。

コンパクトな楽曲に、明快なメロディが乗る。そういう意識が各楽曲の隅々に至るまで徹底されているのは、まさにセルフ・タイトルを名乗るべき自信と確信の現れかもしれない。しかしどこかコントロールされすぎている。バランスが取れすぎている。その要因はコントロールする(できる)人間がバンド内にいるからで、それはギタリストのジョン・ペトルーシだろう。

バンドの司令塔だったマイク・ポートノイ脱退直後の前作では、ドラムの音がやたら軽いという意外には、その影響をさほど感じることはなかった。しかしドラマー交代の影響は、ここへ来て如実に表面化してきている。ドラマーが変わったということそれ自体よりも、バンドの中心人物がいよいよ一人に絞られたという体制の変化、つまりは独裁体制になったということによる影響が。

このアルバムは良くも悪くも「ジョン・ペトルーシ・バンド」の作品になっている。楽曲の主役にはいつも彼のギターがある。もちろん彼のギター・フレーズはこれまでも魅力的であったし、本作でも最大の魅力と言っていい。ただそのぶん、脇役の魅力が半減しているとしたらどうか。実際、譜面上の音符を指でなぞりながら歌わされているような間延びした歌メロはこれまで以上の「雇われ感」を感じさせるし、キーボードに与えられた活躍の場も少ない。ベースやドラムスに関しても、コンパクトな楽曲の中で必要最低限の仕事をこなしているように響く。

DREAM THEATERが創り出してきた名作の中には、いつもある種の「不穏さ」があった。それは「明快さ」の対極にあるもので、各楽器間の遠慮会釈ない衝突が生み出す混沌の中から湧き上がってくる感触だった。このバンドに関しては、そんな衝突が生み出す「不穏さ」こそがケミストリーであり、本作の「明快さ」は、「衝突=化学反応」をなくした結果として手に入れたもののように聞こえる。すべての力が楽曲をまとめ上げる方向へと一心に注がれ、破壊する方向へと働く力は巧妙に排除されている。こういう衝突の少ない楽曲群が、今回ジャムセッションから生まれたというのはなんとも皮肉な話だ。

聴きはじめはとにかく疾走曲②「The Enemy Inside」の印象が強く、その1曲に作品全体のイメージを持っていかれがちだが、全体としてはむしろ疾走感に乏しいアルバムであり、メロディが重視されている。だがそのメロディが精彩を欠いてる。いやメロディの輪郭は際立っていて明快ではあるのだが、それはバランスの取れた演出によってもたらされた明快さであって、その実メロディ本体はあまり魅力がないという場面が多い。

実際、サビの部分ではすべての楽器が歌メロに主役の座を譲り地味な演奏に徹する(その他の場面では主役を張るギターもサビでは急速に引っ込む)が、そうやって引き立てられた歌メロがなんだか平坦に延びきっていてつまらない、というシーンが頻発する。そういう場面で、歌メロがつまらなければそれを潰しにかかる勢いで楽器陣が主役の座を奪い合う、というような衝突を厭わない姿勢こそがこのバンドの魅力であり、楽曲の精度を保証していたのではないか。面白味のない主旋律を演出で何とか味つけするという安易な手法を濫発していると、数多いるフォロワー・バンドのように聞こえてしまう。セルフ・タイトルがセルフ・パロディーに見えてくる。

アルバム全体を通じて感じる「深みのなさ」はこの「主役の座を奪い合う緊張感」に欠けているからであり、逆に言えばバンド内が意思統一され上手く行っているときにはこういう作品が生まれがちなのかもしれない。表面的な明快さより、混沌から生まれる美を見たい。

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