泣きながら一気に書きました

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うろ覚え脳男の疑わしい仮説〜佐々木敦×福永信対談感想〜

6/11、ジュンク堂書店新宿店にて行われた佐々木敦×福永信のトークイベントに行ってきた。もう二日前。

当日帰ってきて何かを書こうと思ったら、何も頭に残っていないことに気づき挫折。あんなに面白かったのに。

だが不思議なもので、二晩寝たらなんとなく思い出してきた。重要なことほど、思い出すのに時間が掛かる。脳には整理期間というものが設けられていて、整理がつくまでは思い出せないようになっている。だから脳のキャパシティぎりぎりのラインを責め立てるような、重要で難解な事柄ほど、思い出すまでに時間が掛かる。

という説を今なんとなく思い出したのか思いついたのか、どこかまでは何かしらで読んだ事実だと思うが、この説全体の正確性に関してはまったく責任が持てない。MR.BRAINもたぶんそんな感じ(観てない)。

両者を目の当たりにするのは初めてだったのだが、二人の会話を聞いていて、改めて「打てば響く」という言葉の信頼性を再確認した。明らかに佐々木敦の質問力が福永信の解答力を引きだしていて、しかし福永信の「できるだけ遠くに答えを投げる地肩の強さ」が佐々木敦のさらなる質問を導きだすという構図。

佐々木敦は、自分にもわかっていないことを、堂々と質問する。それは質問者として、理想的なスタンスだと思う。だがこの世にはびこる質問の多くは、あらかじめ想定した答えへと道を敷くための誘導尋問でしかない。それはほとんどが単なる確認作業であって、基本的に時間の無駄。だが社会はそういった確認作業のおかげで円滑に回っている。

それに対する福永信の答え(のようで答えでない答え)を聞いていて思ったのは、「この人はすでにわかっていることは絶対に書かない人だな」ということだった。というより、「世の中にわかっていること(=決定していること)なんて何一つない」という確信めいたものまであるような気がした。となれば書くことは無限にあるということになる。書きたいことが何一つなかったとしても。

「人は自分の知っていることしか書けない」とか、「知らないことを無責任に書いてはいけない」という風潮が一般にあるけれど、そんな狭い範囲で真に面白いものが書けるはずがない。「すべてを疑う」という姿勢はとかく生きにくいスタンスだが、面白いことをやろうと思ったら、そのスタンスは意地でも貫かなければならないと、改めて思い知らされたというか、むしろ勇気をもらった気がした。具体的なまにあわせの解答より、そういうぼんやりとしたモチベーションを受け取るほうが、機会としてよほど貴重だと思う。

とりあえず二人が寄稿している『國文學 6月臨時増刊号』(特集:小説はどこへ行くのか2009)を買い、読んだり読まなかったり読んだり。

『國文學 6月号臨時増刊』
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