泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

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短篇小説「おやつんクエスト」

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 都会の喧噪を離れたリゾート地たけのこの里に、ルヴァンという名の王子がいた。ルヴァンはことあるごとにパーティーを催すことでお馴染みのリッツ家の跡取り息子で、顔にあばたが多くその皮膚はところどころ塩を吹いている。

 かつて隆盛を極めたリッツ家も、ルヴァンの代になるとすっかり勢いを失っていたが、そんなときに限って危機は訪れるものだ。

 先ごろ、海の向こうの無人島に聳え立つきのこの山に暗黒の帝王ダースが降臨し、部下の暴君ハバネロとともに、まもなくこのたけのこの里へ攻め込んでくるらしい――そんな剣呑な噂が、里の耳聡いカントリーマアムたちのあいだでまことしやかに囁かれていた。

 そんなある日、リッツ家の分家であるルマンド家の長女エリーゼ姫を乗せて近海をクルージング中の豪華客船メルティーキッス号が、そのまま姿を消した。エリーゼはルヴァンの許嫁であった。

 ルマンド家はさっそく執事のトッポに調査団を派遣するよう命じたが、急遽組織された陽気なドンタコス調査団の船は、沖でブラックサンダーに撃たれて海の藻屑と消えた。それは季節はずれの、この近辺では前例のない事故であった。あるいは事故ではなかったのかもしれない。

 不測の事態に里じゅうが騒然とする中、広大なルマンド家の上空に一機のエアリアルが現れ、マーブルの筒をその庭へ落としていった。筒を開けると中に入っていたのはカラフルなチョコではなく一通の手紙で、そこには《エリーゼ姫はいただいた。 ダース拝》とだけ記されてあった。

 突然の脅迫状を受けて、武力を持たないルマンド家は武勇で名高いリッツ家に助けを求めた。エリーゼはルヴァンの許嫁という縁もあり、ここはルヴァンがきのこの山へ向かい、ダース一味を打倒してエリーゼを救うという奪還作戦が立てられた。

 だが平和な時代にお坊ちゃま育ちのルヴァンは、生まれてこのかた戦などしたことがなかった。まずは武器を買い揃えねばと思い、ルヴァンは『おかしのたぴおか』を訪れた。たけのこの里には、店といえば当然のようにお菓子屋しか存在しないのであった。

 凶悪な敵と戦うのだから、まずは武器になる棒状のものが必要だった。ルヴァンは手持ちのカゴに、ポッキーとじゃがりこと小枝とうまい棒を放り込んだ。

 となると次に必要なのは、相手の攻撃を防ぐ盾だ。これは幸いにも、家にいくらでもあるクラッカーのルヴァンが使えそうだが、残念ながらルヴァンは穴だらけで防御力に若干の不安がある。ルヴァンはぶ厚く穴の見当たらない歌舞伎揚をカゴに追加した。

 身体を覆う鎧はポテトチップス、チップスター、カラムーチョ、すっぱムーチョ、わさビーフなどのチップス類を貼りあわせればなんとかなるだろう。わざわざ部位によって味を変える意味はわからないが、多少は辛い成分なども入っていたほうが防御力が高まるような気がした。

 ルヴァンは山盛りのお菓子を持ち帰り、その日のうちにそれらを装備したうえで、リッツ家に伝わる帆船アルフォート号に乗って海へと漕ぎ出した。

 海はとても穏やかで、大量のおっとっとが優雅に泳いでいた。この温厚な海が二隻の船を飲み込んだとは、とても思えない。やがてルヴァンを乗せたアルフォートは、きのこの山が聳える無人島へとたどり着いた。

 アルフォートを降りたルヴァンの目の前には、壮大な漆黒のガトーショコラが建っていた。そもそも無人島にこんな立派な城など、あるはずがなかった。

 その時はるか上方から、聞き覚えのある女性の叫び声が聞こえた。声の発信源を求めて、ルヴァンはガトーショコラの最上階を見上げた。そのバルコニーに、可憐なエリーゼ姫の姿があった。

「助けて、ルヴァン! 私の愛するクラッカー!」

 だがそのすぐ横には、残念ながらおいしそうなチョコレートがぴったりと寄り添い、エリーゼの喉元へ、指先に嵌めた鋭利なとんがりコーンを突きつけている。暗黒の帝王ダースであった。

 ルヴァンは無我夢中でガトーショコラ内部へ突入し、城の階段を全力で駆け上った。

 途中、妙に辛そうな輪っかのスナック菓子が大量に襲いかかってきたが、ルヴァンはそれらすべてを、ポッキーをつなぎ合わせて拵えた甘い剣で絡め取りつつ進んだ。どうやらそいつらが、ダースの手下の暴君ハバネロらしかった。口に入れさえしなければ、特に怖い相手ではない。

エリーゼを放せ! 俺が相手になってやる!」

 最上階のバルコニーに駆け込んだルヴァンは、暗黒の帝王ダースに戦いを挑むべく、暴君ハバネロの辛すぎる輪っかを大量に纏ったポッキーの剣を構えた。するとダースは、思いがけぬことを口にしたのだった。

「お前の相手はこの私ではない。私は単なるおいしいチョコレートであって、戦闘力など皆無だ。変わりに戦ってくださるのは――このお方だ!」

 その呼びかけを待っていたかのように、ルヴァンの背後から、白衣を身につけ虫眼鏡を手に持ったひとりの女が現れた。それは科捜研の女であった。

「ね……姉さん!」

 思わずルヴァンは叫んだ。科捜研の女は、ルヴァンの実の姉であった。彼女こそ、かつてはリッツ家の象徴であったのだ。だが数年前に起きたクーデターにより家督を追われ、家を飛び出して姿をくらませていたのである。

「なんでもかんでも、上に載せやがって!」

 科捜研の女は、声高にそう喚きながら弟のルヴァンに虫眼鏡を投げつけてきた。どうやらリッツ家伝統のパーティースタイルに文句を言っているらしいが、お門違いも甚だしい。その一投は、ルヴァンが盾として押し出した歌舞伎揚を一撃で叩き割った。

「何を言ってるんだい姉さん! リッツもルヴァンも、名前が変わっただけでぶっちゃけ一緒じゃないか! 載せるのがそんなに嫌なんだったら、リッツもルヴァンも、何も載せないで食べてもいいんだよ! それでも充分おいしいんだよ! 僕は心の底から、姉さんに戻ってきてほしいと思ってるんだ。この家の看板は、僕には荷が重いってわかったんだ。やっぱりリッツ家の看板は、姉さんが背負うべきなんだ!」

「でもルヴァン、それじゃああなたが……」

「僕はリッツ家を離れて、そこにいるエリーゼと温かい家庭を築いて静かに暮らしたいんだ。僕には姉さんのような、頻繁にパーティーを主催できるほどの圧倒的カリスマ性はないからね。あとのことは、姉さんにまかせるよ!」

 こうしてエリーゼ姫は無事解放され、科捜研の女はリッツ家に戻り、ルヴァンのCMキャラクターもリッツに引き続いて科捜研の女が務めることになったのであった。

 めでたし、めでたし。

短篇小説「ネタバレ警察」

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 新部署に配属されたばかりの越智裕三が、スーパーのおやつ売り場でお菓子のパッケージをひとつひとつ手に取りながらひとりごとを言っている。

「『ポッキー』か……これはやっぱり、食べたとき鳴る音からそう名づけられたんだろうな……だとすれば確実にアウト、と。えーっと『ポテトチップス』は……ポテトのチップス……って以外に理由はないだろうから、これもアウト。ああ、『じゃがりこ』ね。もちろん原料がじゃがいもだからなんだろうけど、後半の『りこ』の部分は見えてこないから……まあ審議対象か。といっても25%ラインは遥かに超えてしまっているから、駄目なことは駄目なんだけどな――」

 裕三はお菓子を手に取っては棚に戻しながら、警察手帳にメモを取っている。手帳にはお菓子の商品名とパーセンテージ、そして「△」や「×」といった記号が並んでいる。

コアラのマーチ 50% × コアラ部分ネタバレ。コアラは絵柄のみで味ではないので、もう少し下げてもいいか。特にマーチ感はなし》

 判定記号の横には、その根拠となる点がメモされている。警察官というのは常に厳然と物事に対処しなければならないが、新たに立ち上がったばかりの部署となるとそうもいかない。迷うことも多く、いまだルールは発展途上にある。

 そもそも自分はなぜこんなことをやっているのか。ふと裕三は我に返ることがある。それもこれも、世の中がネタバレを過剰に気にするようになったせいだ。といっても、最初は映画やアニメくらいだった。

 だが世間というのは、どんなにちっぽけな芽であれ、それが芽でありさえすれば、各方面から陽を当ててすっかり大きく育ててしまう。ネタバレに対する過剰反応が、フィクションの領域を飛び出すのにさして時間はかからなかった。

 きっかけはSNSに呟かれた、一般人によるなにげない投稿であった。

カップヌードルってさ、あれネタバレじゃね? カップに入ったヌードルだからカップヌードルって、それもうほぼ答えじゃん。パッケージにオチ、書いてあるし。ありえねー。おかげで開けるとき全然ワクワクしないんですけど~ #ネタバレ》

 以降、あらゆる商品名に関する言いがかりとも言える投稿が、《#ネタバレ》とともにSNSの大海へ堰を切ったように溢れだしたのである。

 商品名というのは本来、その商品の内容を消費者へ端的に伝えるためにつけられるものである。だから商品名が商品の中身なり特質なりを言い表しているのは当然のことであり、むしろそういうものこそ優秀であると言える。

 だがいまやそれをやると途端に、「驚きがない」「オチが読めた」「何も知らずに食べたかった」などと、フィクションに対するネタバレ時と同様の批判の矢が、あちこちから容赦なく飛んでくるのだった。

 最近はそのような「ネタバレ商品」を製作している企業に対する改名請求運動なども各地で頻発するようになり、事態を看過できぬ国が警察を動かして立ち上げたのが、裕三の所属する警視庁生活安全部内容暴露対策課、通称「ネタバレ警察」である。

 ネタバレ警察では、もちろんフィクションの内容及び題名の検閲なども行うが、このたび裕三が配属されたのは、作品ではなくより具体的な商品を扱う商品名称部門の中にある「おやつ調査室(Oyatsu Research Room。通称ORR)」である。

 ネタバレ取り締まりの基準に関しては、一年前に施行された「内容暴露禁止法」により25%という明確な基準が定められており、おやつの名称に関してもその例外ではない。その商品名に内容物を25%以上表現する言葉が用いられていると判断された場合、違法と判断され企業は改名指導に従う必要がある。

 なお、長きに渡り改名の指示に従わない場合には、販売停止及び業務停止命令が下されるが、それ以上に世間の風当たりが強く、実質的にはSNS主導の不買運動により企業は売り上げ、イメージ、株価の低下という三大ダメージをいっぺんに喰らうことになる。ネタバレ警察は、そのきっかけを作っているに過ぎない。

 裕三は『うまい棒』明太子味を手に取りながら考える。ではこの商品名はいったい、何%のネタバレにあたるのだろうかと。

うまい棒』はもちろん、「棒状のうまいもの」だからうまい棒と名づけられたに違いない。だとすれば、「うまい」も「棒」も商品の内容を完全に言い表しているから、商品名は100%ネタバレであるということになる。もはや有罪は確定であるように思える。

 だがここで考えなければならないのは、「うまい」という言葉が、あくまでも個人の感覚を表す主観的な言葉であるという点だ。人によってはこれを食べて、「うまい」と思わない可能性だって充分にある。

 もしもこれを食べて「まずい」とか「そうでもない」と感じた場合、『うまい棒』という名称のうち、ネタバレをしているのは「棒」のただ一文字であるということになり、そうなればネタバレのパーセンテージは1/4、つまり一気に25%まで低下する。

 それでも25%という法律の最低ラインには抵触しているが、それくらいならばたとえば語尾にモーニング娘。方式で「。」でもつけ足せば簡単に回避することが可能だ。あるいはつのだ☆ひろ方式で『うまい☆棒』としてもいい。

 裕三は自らの目の前の棚にあるお菓子のほとんどが、ネタバレ禁止法に抵触するネーミングを持っていることに改めて愕然としながら、手帳に次々と×の字を書き足していった。

 だがある商品のパッケージを視野に捉えた瞬間、裕三の手が止まった。その平べったい箱に写っているチョコレートの表面には、帆船の絵柄が刻まれている。商品名を『アルフォート』という。

アルフォート』とは、いったいなんだろう? 裕三はその意味のわからなさに、逆に興味をそそられた。「ネタバレがないというのは、こういうことか!」裕三はそこではじめて、ネタバレという行為の罪深さを知った。

 意味がわからない商品名のほうが、どうやら気になるぞ。これは英語だろうか、フランス語だろうか、どんな意味があるのだろうか? それともこれは船の名前だろうか、街の名前だろうか、港の名前だろうか? 気になって気になって仕方なくなった裕三は、その場でスマホを取り出し、《アルフォート》で検索をかける。すると驚くべきページに行き当たったのだった。

gogen.info

 なんと《アルフォート》という言葉は、完全な造語だというのだ。どんな外国語にもそんな言葉はなく、具体的にどこかの場所や人名にちなんだ名前でもないらしい。

 なんということだろう! 裕三は驚きに震える手で手帳に「アルフォート」と書き、その横に「0%」と書き、さらにその脇に初めての「○」を書いた。

 しかし。裕三は手帳にそう書き込んでから、改めて『アルフォート』のパッケージを見直してみた。すると、大変なことに気づいてしまったのだった。

 いったいどうして、こんなことをするのだろう。箱に大きく書いてある《アルフォート》という文字の下には、小さな字で《ミニチョコレート》と、さらにその下には、わざわざ目立たせるために拵えた四角囲みの中に、《全粒粉入りビスケット》という至極説明的なフレーズが、ご丁寧にも書き足されているではないか!

 こうなってくると、果たしてどこまでを商品名として認識すべきなのか。裕三の中で、法律の解釈に新たな議題が生じた瞬間であった。

 もしもこれをすべて商品名として捉えたならば、確実に25%ラインに抵触してしまうだろう。あるいは逆に、《アルフォート》のみを商品名として捉えた場合には、実質的に大幅なネタバレを許すことになってしまう。

 法律の実効性を考えるならば、完全にパッケージ表記で内容物を説明してしまっている以上、明らかに取り締まりの対象となるが、一方で《アルフォート》という最大文字以外の情報に至るまで、いちいち読み込んでいる消費者が多いとは思えないのも事実。

 裕三は手帳に書いた「アルフォート」の横にある「100%」を二重線で消して「不明」と書き直し、同じく「○」を消して「△」に書き換えたのだった。

 人はどうしてこうも、ネタバレをしてしまうのか。ネタバレ撲滅への道は、あまりにも遠く果てしなかった。その夜、裕三は帆船で難破する夢を見て、幼少期以来となる盛大なおねしょの地図を布団に描いたという。

[※なお、題名の100%が内容暴露禁止法に抵触するとして、本作品は発表後まもなく発禁となった]

短篇小説「反語の竜」

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 竜は素直じゃない男だ。彼は産道の中ですらも、「産むなよ、産むなよ」と心の中で念じていたという。もちろん産まれたくないわけではなかった。だが本当に産まれたかったのかどうかは、物心ついていないのでよくわからない。
  
 竜の少年時代には苦い思い出が多い。ある日、昼休みのドッヂボールに夢中になりすぎた小学五年生の竜とクラスメイトたちは、遅れて教室へ突入すると廊下に並ばされ、担任の男性教師に説教を喰らうはめになった。しかしこの担任は温厚な青年で、このときも恫喝するような調子は微塵もなかった。

 だが人間、何でスイッチが入るかわからない。そんな気配など微塵もない担任の説諭の最中に、竜が突如として「ぶつなよ、ぶつなよ」と呟きはじめたのだった。すると担任は何かに取り憑かれたように、廊下に並ばせた男女計八人の生徒を、片っ端からビンタしていった。

 慣れないビンタは音が鈍いわりに痛く、生徒にはすこぶる不評であったが、竜が喰らった一撃だけはほとんど痛みを感じさせず、澄んだ高音を廊下の果てまで響かせた。

 もちろん竜はその日の放課後、クラスメイトたちから問い詰められることになった。お前が「ぶつなよ」と言ったせいで、俺たちはぶたれたんだぞ。お前があんなことさえ言わなければ、先生はぶったりはしなかったのに、と。

 ひとりの男子生徒は、「お前だけぶたれずに済まそうなんて卑怯だぞ」と言った。

 するとある女子生徒が、「でも『ぶつなよ』と言ったからって、自分だけぶたれないという保証はあるのかしら」と反論した。「竜ちゃんは、生徒全員を『ぶつなよ』と先生にお願いしたのかもしれないじゃない」

「てゆうか、『ぶつなよ』って命令形が良くないんだろ」また別の男子生徒が、角度を変えてもっともなことを言う。「目上の先生に対しては、『ぶたないでください』が正解じゃね?」

 だが問題はそのいずれでもなかった。冒頭にも述べたとおり、竜は元来素直じゃない男だからだ。

 つまり竜の言う「ぶつなよ」は、「ぶつなよ」という意味から放たれた言葉ではなかった。素直でない竜の言う「ぶつなよ」は、すなわち「ぶて」という意味なのだった。なにしろ竜は、素直じゃない男なのだから。その証拠に、ぶたれたあとの竜は、何かを成し遂げたような笑顔を浮かべていたのだった。

 つまり竜の発言に正しく反応したのはむしろ担任教師のほうであり、クラスメイトは誰ひとりとして彼の発言の意図を理解することができなかった。それが竜の少年時代を孤独にさせた。

 ある日、給食に出たおでんは妙に熱かった。竜は中でも特に熱々の卵をお椀の中にじっと見つめながら、「やめろよ、やめろよ」と呟いた。クラスメイトたちは意味がわからずに無視していると、つかつかと寄ってきた担任が、巧みな箸さばきでその卵を突き刺して、竜の大きく開いた口の中へ丸ごと放り込んだ。

 そのとき竜は熱い熱いとのたうち回りながらも、またもやしてやったりのドヤ顔を浮かべたが、クラスメイトたちの反応は冷ややかなものであった。後日この場面がPTAで問題となり、担任は処分されどこかへ行ってしまった。

 ある夏の日、今度は体育の時間に使用するプールが怖ろしく熱かった。まるで熱湯風呂のように。誰もが入るのを躊躇する中、海パン一丁の竜はプールサイドの水際に立つと、ちらちらと後方を振り返りながら「押すなよ、押すなよ」と繰り返した。

 だが竜の一番の理解者であったあの担任はもういなかった。しかしその頃には、竜にもクラスに二人だけ友達ができていた。二人はそれぞれ竜の右腕と左腕を掴むと、竜を思いきりプールへ突き落とした。続いて助けるふりをして手を伸ばした一人を竜がプールに引っ張り込み、最後に水中の二人を助けようと手を伸ばした残りの一人も、お約束のようにプールへ引きずり込まれた。

 熱湯に飛び込んだ三人を心配した新しい担任教師がプールにおそるおそる手を差し入れてみると、先ほどまで湯気を上げていたプールの中身は、すっかり適温に戻っていたという。

 のちに「反語の竜」と呼ばれる伝説の男は、このようにして誕生した。大人になった彼とその他二名が本領を発揮するのは、また別の話だ。 

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