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短篇小説「憤と怒」

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 憤介が怒っているのは、いつものバス停に時間通りバスが来ないからであった。すでに時刻表から十分も遅れている。会社に遅刻すれば怒られるのは憤介なのだから、彼が怒るのも無理はない。しかしまにあったらまにあったで、要領の悪い憤介はどうせ別件で上司に怒られるので本当のところは大差ない。怒られる理由が変わるだけの話である。

 バスの運転手が怒っているのは、複数の乗客による「とまりますボタン」早押し合戦が先ほどから激化しているからだ。今朝のバスにはそれを押したがる子供が何人もいて、それをいっこうに止めようともせずそれどころか応援さえしてみせさえする親が何人もいた。親たちは別の親に怒り、子供たちは自分の一撃により期待どおりの悲鳴をあげないボタンに怒りをぶつけていた。

「とまりますボタン」が有効なのは、最初に押した人間だけということになっている。この不毛な略奪戦を生んでいるのは、そんな早い者勝ちな一番槍システムのせいであると、運転手は常日頃から憤りを感じていた。

 だが二番目に押したのもそれ以降に押したのもいちいち全部鳴っていたら、運転手がそれはそれで怒ったであろうことは想像に難くない。そんな運転手も、昔はブザーを押したくて押したくて震える子供だったのだが。

 運転手は、子供がボタンを押しそうなタイミングで急ブレーキをかけて彼らの体勢を前後左右へ崩したり、ブザー音を自らの車内アナウンスで掻き消したりすることに集中するあまり、運転がおろそかになってバスに大きな遅れが生じた。急ブレーキによる重力の変動が、何台ものスマホを床へと転がした。そして転がったスマホは、必ず誰かの足によって踏みにじられた。

 バスの横をすり抜けようとしていたバイク便のライダーは、自らの進路をいちいち妨害してくるバスの不安定な走行曲線に怒っていた。

 バスの不安定な進路を避けるためにふくらんだバイク便ライダーのハンドル操作が、今度はその後ろを走っていたタクシー運転手を怒らせた。急ブレーキを踏んだタクシー運転手はすべてをバイク便ライダーのせいにしようと大袈裟にクラクションを鳴らしたが、その爆音が後部座席で徹夜明けのうたた寝を決め込んでいる乗客の怒彦を叩き起こし怒らせた。

 クラクションで覚醒した怒彦は、昂ぶった気分を落ち着けるために目の前の助手席の背に貼りついている画期的増毛法のチラシを手にとって眺めた。ちょうど最近、薄くなってきたような気がしないでもない。近ごろは、飲みにいった先で毛髪の話ばかりしているような気がする。

 これもいい機会だと思い、同じ悩みを持つ同僚にもこのチラシを渡してやろう、みんなで増やせば怖くない! そう思い立って怒彦がチラシホルダーからもう三枚ほどチラシを抜き取ると、その中に一枚だけ脱毛業者のチラシが混じっており彼はまた猛烈な怒りを覚えた。左袖をまくり時計を見るふりをして、腕毛を一本ひっこ抜くとその怒りは不思議と収まった。

 だが収まった怒りもささいなことで復活することを諦めてはいない。いったん冷静になったついでに改めてチラシを吟味してみれば、増毛チラシの電話番号下四桁は「2834(ふやすよ)」、脱毛チラシの下四桁は「5742(けなしに)」となっていることに彼は気づいてしまった。増毛屋が数字の3を英語読み「スリー」の「す」に当てはめたのもたいがいだが、脱毛屋の5を「け」と読ませる強引さには怒りを通り越して失笑が漏れた。

 彼は普段から、何事につけ増やすよりも減らすほうが残酷な行為であると感じていたため、両者の決定的な相違がこのチラシにより立証されたような気がしてまた怒った。通り越したはずの怒りが踵を返して再び襲いかかってくるのは良くあることだ。

 そんな怒彦がチラシをブリーフケースに突っ込んでタクシーを降り(このブリーフケースに彼は、律儀にもちょうどこの日購入したばかりの白ブリーフを入れていたが、それはまた別の話。ちなみにこのブリーフは買ったばかりであるにもかかわらず黄ばんでいたが、それもまた別の話だ)、会社の入っている高層ビルへと入っていった。 

 怒彦がエレベーターに乗って自らの部長席へとたどり着くと、すでに始業時間を二十分過ぎていた。席について周囲を見まわすと、直前に同じく遅刻してきたらしい部下の憤介が慌ただしく始業準備をしている姿が目に入った。彼はいつもならば一分の遅刻でさえ部下を叱り飛ばすところだが、この日は自分も遅刻をしていたため怒ることができなかった。

 怒彦はそっと憤介に近づくと、自分の同じく薄毛の憤介に、先ほど手に入れたチラシの中から、嫌がらせのつもりで脱毛のほうを手渡してやった。しかし憤介は薄毛であると同時にムダ毛にも悩んでいたため彼はそれを大いに喜び、この日から「憤」と「怒」はお昼休みに仲良くランチへ行くようになったという。

  
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