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短篇小説「開けたら閉める」

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 いよいよ人類待望の「手動ドア」が発明された。待ちに待った「手で開けるドア」の誕生である。

 きっかけは、とある洞窟の最奥部に描かれた壁画であった。先ごろ発見されたその壁画に描かれていたのは、おそらくは古代人たちの生活風景であり、その様子は現代の人々に大いなるカルチャーショックを与えた。こんなに手を使う人間を、誰も見たことがなかったのである。

 われわれは、生まれたときからあらゆる物事が自動であった。空腹時に口を開ければバランスの取れた食事が口に放り込まれてくるし、風呂に入る前後も自力で服を着脱する必要などもちろんない。洗濯も掃除も食器洗いも自らの手を煩わすことはなく、ゆえに手を日常生活で使用することは滅多にない。端末もコンピュータもわざわざ手で操作するまでもなく、こちらの要求を脳波から先読みして作業をこなしてくれる。

 これは世の自動化の流れとして当然のなりゆきであるが、一説によると「サッカー」という足を重点的に使用するスポーツの普及により、手仕事軽視の価値観が蔓延した結果であるとも言われている。とはいえ、人間の生活が完全自動化される以前の出来事に関しては、あらゆる資料が自動的に消去されてしまっているため不明な点が多い。「過去から学ぶ」と言われていた人間が同じような戦争を懲りずに繰り返したため、そこには学びがないどころか、いつしか「過去こそが害悪」とすら見なされ、いまや三年より以前の歴史は完全に消去されることとなっている。

 それにしても壁画に描かれた古代の人々は、なんと生き生きとしていることだろう。そこでは老若男女が炊事、洗濯、掃除、農業など、あらゆる物事を手作業で行っているように見える。とはいえその画を見た誰ひとりとして、実際に手を使ってそのような作業をしたこともなければ現場を目撃したこともないので、それが本当の意味での「手作業」なのかどうかは誰にも断定できなかった。

 多くの人々が描かれたその画の中でも特に、手でドアらしきものを手前に引っぱって開けている男の子の表情が最も生き生きとしており、そのことからやがて世の中に、前代未聞の「手動ドア待望論」が湧き起こった。単なるドアの前でそんなに楽しそうな笑顔を浮かべている人間を、われわれはかつて見たことがなかったのである。

 そもそもこの時代に生きる人間は、「ドアを手前に引く」というシーンを見たことがない。われわれが馴染んでいる自動ドアとはむろん横に開くものであり、縦に開く自動ドアは採用されていない。ゆえに壁画の中のドアに設置された、男の子がそれを握って悦に入っている取っ手のようなものについてもいっさい見覚えがなかった。ゆえにそれが本当にドアと言うべきものなのかということについて、当初は識者の間でも賛否両論が巻き起こった。

 中には、「これはフォークダンスの練習用具なのではないか」という説をもっともらしく唱える向きもあった。たしかにその少年は楽しげに踊っているようにも見えたが、主として「男の子は一般に、運動会のフォークダンスをさほど楽しみにはしていない。あれは嫌々やらされるものである」という理由から、描かれた少年の浮かべている満面の笑みを根拠に、その説は却下された。もしもそこに描かれていたのが女の子だったならば、あるいは手動ドアではなく、今ごろ取っ手つきのダンストレーニングマシンが作られていたかもしれない。

 結果、それが「手動ドア」であるという認識は一致したものの、国内企業による商品開発は困難続きであった。第一にこれまで自動ドアを製作してきた企業は、そのほとんどがそもそも電機メーカーであったため、電気をいっさい用いない非電力式ドアの製作に難色を示した。

 一方で家具メーカーや建築会社にとっては、ドアといえばもちろん自動ドアであり、自動ドアといえば紛れもなく電化製品であるからして、「手動ドアを作れ」というのは「電気の通っていないテレビを作れ」と言われているような、至極不毛なリクエストに思われた。

 巷で湧きあがる待望論をよそに、それぞれが譲りあいのふりをした押しつけあいを繰り広げたあげく、最終的にはドアとはなんの関係もない新進気鋭のIT企業が製作に名乗りを上げた。

 参考資料が例の洞窟壁画しか存在しないため、大まかなイメージはすぐさま掴めたものの、細部に関しては不明な点が多く、開発は難航した。自動車にも冷蔵庫にも当然ドアはついているがすべて全自動かつ横開きであり、どうすれば手前に開くドアが可能なのか誰にも見当がつかなかったのである。

 しかし三年間研究を重ねた結果、昆虫マニアの工場長が経営する下町の小さな工場がふざけ半分で試作した「蝶々型のヒンジ」を思い切って採用することによってはじめて、縦に開く新種のドアが製作可能となった。開発は急ピッチで進んだ。

 そして迎えた製品発表会当日、都心にあるドーム球場の正面ゲート前には、多くのマスコミと野次馬が詰めかけた。

「せっかくのドーム球場なのに、なぜ外で?」という意見が群衆のあいだで囁かれたが、そこにはこの画期的ドアの開発を手がけた敏腕IT社長・櫻川ワタルによるサプライズ演出が用意されていた。

 ほぼ円形のドーム球場外縁には、その円周上に地上一階から四階まで、計三十三個の入場ゲートが設置されており、これまでそれらは当然すべて自動ドアであった。

 櫻川が記念すべき手動ドアの発表会場にドーム球場を選んだのは、まさにそのドアの設置数に目をつけてのことであった。櫻川はこれらのドアをすべて手動ドアにつけ替えさせてこの日を迎えた。

 実に三十三ものドアが、冷酷非情な機械式ではなく、三十三人の温かい手によっていっせいに花開く。そんな派手好みの演出は、軽薄なくせに(だからこそ)感動屋の一面を持ちあわせる櫻川の得意とするところである。それを目撃したオーディエンスもマスコミも、きっとあの壁画の少年のように無邪気な笑顔を浮かべるに違いない。

 そして実際のところ、発表イベントは大成功に終わった。この日をきっかけに、 一ヶ月後に発売される手動ドアの爆発的ブレイクは、約束されたかに思われた。

 だが「家に帰るまでが遠足」であるように、何事も最後まで油断ならぬものである。

 これまで手動であったものが自動になった場合、生活が大変便利になり、不便が減ることは当然のなりゆきだろう。技術レベルが低ければ人が挟まれるといった事故も起こり得るが、すっかり研究が進み商品が成熟し、すべてが自動ドアになった現代において、そのように稚拙な事故はもはや起こりようもない。

 では反対に、自動であるものが手動になった場合はどうか? あらゆる物事が自動化されった今となっては信じがたい出来事ではあるが、風の噂によると、排出した便が自動的に流れる自動洗浄便器が登場した当初、各地のトイレではとんでもない悲劇が頻発したという。

 いち早く自宅に自動洗浄便器を導入したセレブたちが、いまだ自動化されていない会社やホテルのトイレで用を足した際、大便を「流し忘れる」という事件を頻繁に起こしていたというのである。

 むろんこれは故意ではなく無意識の行為であったはずだが、「大便は自動的に流れるもの」という便利な習慣がいったん身についてしまうと、人は「排便後にわざわざ自力でレバーを操作して流す」という最後のひと手間を忘れてしまうのである。これは使用者が人間である以上、無理もないことのように思われる。

 そしてこの日もまさに、そのような悲劇がイベント終了後に起こっていたのであった。

 自動ドアに慣れ親しんだ人々は、ドアを手で開けることにも慣れていなければ、ドアを手で締めることにも慣れていない。いや慣れていないどころか、やったことすらないのである。そしてそれは、このイベントに関わったスタッフもまた例外ではなかった。

 それでもこの日行われたのは「ドアを手で開ける」イベントであるから、彼らもドアを開けることに関しては意識を集中して取り組むことができた。

 だがいったん開けたドアがその後どうなるのかということに、意識を向けた者は誰ひとりとしていなかった。
手で開けたドアは、必ずその手で閉めなければならない。

 しかし自動ドアに飼い慣らされた彼らの中には、「ドアは勝手に閉まるもの」という意識がすっかり根付いてしまっていた。彼らにとって「勝手に閉まらないドア」など、もはやドアではなかった。

 ゆえにイベントスタッフ一同は、ドーム球場の計三十三個のドアを、もれなく開けっぱなしの状態で撤収・解散した。

 翌朝、張りのある球体はすっかりしぼんだ状態で発見された。


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