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短篇小説「米米商店街」

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 その商店街にはじめて店を出したのは米屋だった。さすが日本人の主食である。と言いたいところだが、そのはす向かいにオープンした二件目の店もまた、別の経営者が開いた米屋だったことで町内は騒然となった。

「おいおい、年貢はもういいぜ」

 そう言って揶揄していたある若者が、二件目の米屋の隣に魚屋をオープンした。おかずが必要だと思ったからだ。

 しかし魚屋は繁盛しなかった。なぜなら米屋は本当の意味での米屋だったからで、米屋にはまさしく米しか売っていなかったからである。

 といっても、すっかり至れり尽くせりの状況に飼い慣らされた現代人にはなかなか理解できないかもしれない。しかし米しか売っていないということはつまり、生の米がそのままどんと店頭に積まれているということであって、その米は袋さえも着せられていない、いわゆる「裸米(はだかまい)」であった。

 とかく商店街がオープンした当初には、そのように想定を超えた問題が露見するものである。ちなみに農家から米屋まで、収穫した米を袋なしでどのようにして運び入れたのかは、依然として謎に包まれている。

 だがそこで機を見るに敏。一件目の米屋の隣、つまり二件目の米屋の向かいにさっそく「米袋屋」を開いた元カンガルー飼育員の嚢見封蔵は、後に「ビジネスの鬼」と呼ばれた。しかしそんな米袋屋も、当初はさほど繁盛しなかったのである。

 もちろん、二件の米屋の店頭に放置されている裸米を詰めるぶんだけの袋は、即座に捌けた。しかし結局のところ、袋に詰めた米も、それが袋に入っていなかったときと同様にまったく売れなかったのである。

 なぜならばその町の誰ひとりとして、米を炊く道具を持っていなかったからである。

 いや待てよ。そもそもそんな誰も食べかたを知らない物を、わざわざ年貢としてお上が取り立てたり、店を出して販売したりすることなどあるだろうか。価値のない物を税として徴収し、価値のない物を巷に流通させる。そんなことをしても、誰も得しないではないか。そう思われるのも無理はない。

 しかしいま我々が税として徴収され、巷に流通している貨幣紙幣も、誰も食べかたなど知らないし、実はなんの価値もないのかもしれないのである。もしくは調理法と調理器具さえあれば、それは米のようにゆくゆくは美味しく食べられるものなのかもしれない。

 魚屋を開店した若者も、米をまともに調理して食べた経験などないにもかかわらず、米には当然おかずが必要だと思い至ったのだ。当時はまだ「おかず」という言葉すらなかったはずであるのに。それはもはや、知恵でもアイデアでもなく「本能」と言うべき領域かもしれない。

 そして彼のその、ご飯とおかずの蜜月を予言的に言いあてた直感は、米を炊いて食べる習慣を身につけた現代の我々にとっては、至極正しいものであることが証明された。しかし当時は残念ながら、時代が彼に、おかずが米に、いや習慣が直感に追いついていなかったのである。

 ではそんな状況下にあってなぜ、商店街にまず米屋が開かれたのか。それはいまもって謎であるが、実際に米屋がオープンしたことにより、商店街には米袋屋、米櫃屋、ジャー屋、升屋、しゃもじ屋、碗屋、箸屋、ジャー修理屋、などが次々と出店し、町の人々がお米の味を楽しめる状況が徐々に整っていったのである。「卵が先か鶏が先か」という積年の疑問は、どのジャンルにも存在していると言うことだ。

 ところで先に魚屋をオープンして失策したあの若者。彼もすっかり郷に入りては郷に従え、ここに至って商店街の隅っこに「袖口固米取屋」を開店し、いまや店頭の行列が途絶えることはないという。


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