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泣きながら一気に書きました

妄言コラムと気儘批評と悪戯短篇小説の巣窟

真夏の果実、常温の過失~八百屋の軒先に並んだ不機嫌な果実たちへ~

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八百屋の軒先に果物が並んでいるのを見ると不安になる。なんのことはない、ごく当たり前の状況である。だからこそ不安なのだ。

そもそも「当たり前の状況」が、いつも確固たる根拠を持っているとは限らない。むしろそれが「当たり前である」という状況にあぐらをかいて、ロクに「そうでなければならない理由」や「より良い別の選択肢」を考えていない場合も多い。「当たり前の状況」と「最適な状況」は、実のところまったくの別物なのである。

夏は暑い。これは言うまでもなく「当たり前の状況」である。八百屋の軒先に果物が並んでいる。これも先述のとおり「当たり前の状況」だ。しかしそれらの組み合わせとなると、どうか。「真夏の炎天下、八百屋の軒先に果物が並んでいる」――これも「よく見かける」という意味ではごく「当たり前の状況」ではある。しかし、本当にそうなのだろうか?

八百屋の軒先に配置されているバナナや桃。あれ、大丈夫なんだろうか? 物によってはところどころ変色して、明らかに傷んでいるように見えることがあるのだが。

たしかに屋根や幌によって、直射日光は当たらないように気を配られているのかもしれない。しかしなにせこの猛暑である。果物に限らず、あらゆる有機物が傷んでも当然なのではないか。ならば冷やしたほうが明らかに、鮮度も安全度も保てるのではないかと。どうせ買って帰ったら、真っ先に冷蔵庫に入れるのだし。もしも家に常温の果物があったら、しばらく待ってでもきっちり冷やしてから食べたいとすら思う。

だがそんなことを考えていると、ふと逆サイドの考えもひょっこり浮かんでくるものだ。「はたして果物にとって、冷やされることは良いことなのか?」と。

そもそも果物の多くは「南国育ち」である。つまり生っているあいだは、暑いところで生きている。いやむしろ彼らは、「暑いところでないと生きられない」のである。少なくとも、冷蔵庫レベルの温度で育つ果物はあまり聴いたことがないような気がする(リンゴくらいか?)。

つまり常温で果物を置く八百屋サイドの考えとしては、彼らを「育った環境と同じような状況に置いてやる」という、育成現場を知っている者ならではの、ある種の「現場感覚」があるのではないか。いわば彼ら果物たちの「ありのままの姿」とは、「冷蔵庫内で人工的に冷やされている状態」などではなく、「常温で太陽のもとにさらされている状態」のほうなのだと。

そういえばよく「なんでも獲れたてがおいしい」と言われるが、もぎたての果物は当然常温であって冷えてはいない。テレビ番組のロケなどでも、もぎたての果物を頬ばる場面がよく映し出されるが、あれもわざわざ冷やしている様子はなく、その場で常温で食べておいしいおいしいと言っている。もちろんそのリアクションは、レポーターの匙加減ひとつとはいえ。

さて、こうなるとますますわからなくなってきた。果物にとっての「適温」というものが。普通に考えれば、果物に限らず生きている状態では温かく、死んでいる状態では冷たいのが良しとされるのかもしれない。そう、果物はそもそも、「もぎ取られた時点ですでに死んでいる」のだ。ケンシロウに言われるまでもなく。

しかし果物の場合ここでさらに、熟す(追熟)という「死後の成長プロセス」があるため、事態はいっそう紛らわしくなる。獲れたての状態よりも、しばらく常温で放置しておいたほうが甘くなるというあれである。軒先に果物をさらす八百屋は、あるいはこれを狙っているのかもしれない。しかし店によっては見るからに傷んでいるものが混ざっているのも事実で、それはもちろん、店側の管理体制の問題、ということになってくるのだが。

そしてこうやって書いてきて改めて思うのは、「常温」という言葉の心もとなさだ。いったいそれが何度なのか、全然わからない。そしてどうやら地球温暖化によって、我々の中にある「常温」の感覚も、相当に変化しているらしい。昭和の八百屋の軒先の温度と、アスファルトとエアコン室外機に囲まれたいまの八百屋の軒先の温度は、間違いなく同じではない。もしも前者を「常温」とするならば、後者はすでに「常温」の範疇を、はるかに超えているのかもしれないではないか。

むかしの「当たり前」がいまの「当たり前」としてふさわしくない可能性は、いつだってある。そんなことを考えながら、今日も果汁0%の炭酸飲料を飲んでいる。

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