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泣きながら一気に書きました

妄言コラムと気儘批評と悪戯短篇小説の巣窟

東京五輪エンブレム問題とクリエイターのゆくえ

東京五輪エンブレムに関する一連の騒動を見ていると、「クリエイターとは何か?」「オリジナルとは何か?」という根源的な問題に、毎度必ず行きつくことになる。これはデザイナーだけでなく、すべての制作者にあてはまる話だ。

大前提として言えるのは、どのジャンルのクリエイターも、「すでにあらゆるものが世に出つくしているんじゃないか」という共通感覚の中で闘っているということである。

たとえば音楽の世界でいえば、猫も杓子もカバーアルバムを出し、音楽番組はCD全盛時の売り上げ実績を根拠にすっかり懐メロ大会になり、新人ですらオマージュという名のもとに往年の名フレーズを曲中に入れ込んでくる。これらの行いは単なる懐古趣味というのもあるが、それ以前に現状及び未来への諦念から来ているというのが本当のところだろう。

それはまさしく、受け手が求めたがゆえに生まれた、のっぴきならない現状でもある。多くの人が「知ってる曲」だけを聴きたがるから、昔のヒット曲ばかりが世の中に流れる。「すでにあらゆるものが世に出つくしているんじゃないか」という感覚をより強く抱いているのは、あるいはむしろ受け手のほうなのかもしれない。

クリエイターにとってそんな現状の先にあるのは、潔く筆を折るという決断か、「ならばカット&ペーストしかない」という開き直りか。「出つくしている」ということを、ゆえに「すでに素材が豊富にある」と捉えるならば、検索システムの普及も含め、後者は格段にやりやすくなっている。あるいはそのどちらでもなくオリジナリティを追求するという修羅の道が、いま本当にあり得るのか。そんな理想的な「王道」がもしあるとするならば、そこを歩んでいる者たちに、果たして正当な評価が与えられる準備はあるのか。

一方でこれはまた、クリエイターやその作品の受け手だけでなく、クリエイターを使う側の者、つまりクライアントや発注者側の人間こそが考えなければならない問題でもある。彼らはけっして第三者などではなく、間違いなく当事者の中に含まれている。むしろ首謀者と言えるほどに。

クリエイターには、大きく分けて2つのタイプがあると僕は考えている。それを仮に音楽業界にあてはめて、「作曲家タイプ」と「DJタイプ」としてみよう。前者は何もないところから物を「創る」。後者は、すでにあるものを組み合わせることで、新たな形を「作る」。もちろんこの2つは厳密に分けられるものではなく、本当にどこからの影響も受けず、真の意味でゼロから作曲をするのは、おそらく不可能だろう。どんな音楽だって基本的には、1音1音の「既にある音階」の組み合わせによってできているのだし。なのであくまでも、両者の違いは「傾向」として捉えてほしい。

発注者サイドからしてみると、「作曲家タイプ」のクリエイターは、正直扱いにくいことが多い。安定した元ネタの仕入れ先がないぶん、出来不出来の波はどうしてもあるし、何もないところから出発するのでなにしろ時間がかかる。それにその人の個性というものが曲作りの出発点に強くあるから、「違う方向性でもう一案お願いします」といった修正のリクエストに対し、柔軟に対応することが難しい。

一方で「DJタイプ」のクリエイターは、非常に使いやすい。このタイプの人はそもそも元ネタ選びのセンスで仕事をしているから、常に質の高い元ネタを抽斗にストックしているし、新しいネタにもいち早く反応する。そのためクオリティの波が少なく、すでに出来ているものをアレンジして組み合わせるという実験作業なので、手数は多いが作業スピードは早い。さらには作品の素材部分に自己を投影することがないので、修正リクエストに対しても、迅速かつ柔軟に対応できる。「あれとあれの間くらいの感じで」と支持を出せば、確実にそこへ落とし込んでくる。

と、こう比較して、だからカット&ペースト主体の「DJタイプ」のほうが使いやすい、というような結論では、まだまだ現状に比して生ぬるい。むしろもっと切実に、今や「そうでないと使えない」というところまでおそらく来ている。ここからは単純に、お金の問題になる。残念ながら。

あらゆる予算が削減されている時代である。となればもちろん、なんにしろ制作費は削られる。そのしわ寄せは特に、業務を発注するよりもされる側に、使われる側に来る。今の日本においてクリエイターとは、多くの場合使われる側の人間である。つまり結局のところ、立場的には下請け業者に過ぎない。真っ先にしわ寄せが来る。そうやって仕事の単価が、平然と下げられる。

単価が下がればどうなるか。受注側にしてみれば、これはもう仕事の数を増やすしかない。ましてフリーの人間であれば、守ってくれる会社などない。さらに自分の会社を持っている立場の人間であれば、守ってくれないどころか、逆に部下を守らなければならない。いよいよ仕事を増やすしかない。

そして実は発注者サイドの会社もまた、個々の仕事の売り上げが減少しているから、それを数で補おうとする。つまり1つのプロジェクトにかける予算と時間が少なくなり、〆切が早くなる。

こうしてクリエイターは社会全体のスピード競争に巻き込まれ、拙速であることを余儀なくされる。少なくとも専業である人は、スピードがすべての前提になる。スピードがないクリエイターは、発注者からすれば、自動的に「使えない奴」というレッテルを貼られることになるし、そもそも稼げないから食えなくなって廃業するしかない。そのループから脱出するには、ギャラを上げるしかないが、それには世間を揺るがすほどの決定的な実績が必要になる。あらゆる企業から「引っ張りだこ」の状態になり、そのうちの多くのオファーを「断らざるを得ない」競争状態に入らないと、ギャランティーは上がらない。

しかしスピードばかりが求められる状況下で、そこまでの実績を得ることはどうしても難しい。それにそもそも、「どこまで仕事がそのクオリティで評価されているのか」という点にも、疑問が残る。クオリティが実績に直結するのならば頑張りようもあるが、乗り越えようのないコネクションがそれを軽く凌駕してゆくとなると、いよいよ下請けの無限ループから抜け出すことは不可能になる。「実力主義」という当たり前の感覚が、いまの日本に本当に根づいているのかどうか。

先ほど「作曲家タイプ」と「DJタイプ」を比較した際、あえて書かなかったことがある。そしてそれは、本当はものすごく大事なことだ。それは「作曲家タイプ」のほうが、基本的に「ホームランバッター」だということである。たしかに打率は、安定した既存の素材を組み合わせて作る「DJタイプ」よりも低いかもしれないし、きっと足も遅い。しかしそもそも「クリエイター」というのは本質的に、「ホームランを狙って打つ人」のことではなかったか。ただ受け手の要求通りの正解を出すのではなく、受け手の要求を満たしつつもそのはるか斜め上をゆく、味方にすら想定外の、場外ホームランをかっ飛ばすことを期待されているのではなかったか。

そんなのは単なる理想論に過ぎない、と言われるかもしれない。実のところ、「DJタイプ」の中にもホームランバッターはいるし、原曲へのリスペクトとクレジットさえあれば、ルール上問題はない。個人的にパロディは大好きだし、モノマネ芸だって嫌いじゃない。オリジナルよりカバーのほうが好きな曲だってある。だけどやっぱり、「創る人」が減って、「選んで組み合わせる人」ばかりが重宝され増えてゆくのは、やっぱり何かが根本的に間違っているんじゃないかと思うのだ。このままだとある種の「少子化」というか「資源の枯渇」とも言うべき事態が、遠からず訪れるのではないか。結局のところ「創る人」がいないと「選んで組み合わせる」ための素材が全然増えていかないわけで、この先には「選んで組み合わせる人」にとっても、「原材料不足」という致命的な状態が待っているのではないか。

これは見た目ほど一面的な問題ではない。これだけ頻繁に使っておきながら、個人的に「クリエイター」という言葉があんまり好きではないのは、そう名乗っている人に限って何も創っていないように見えるからで、それはそもそもこの国では、真の「クリエイター」などというものが必要とされていないからなのかもしれない。少なくとも、いまは存続するのがひどく難しい状況にある。今回の事件を機に、「やはりオリジナリティは大切だ」という当然の価値観が、少しでも世間に思い出されることを願う。

とはいえ「オリジナリティ」と「クオリティ」もまたまったくの別物であったりするので、オリジナリティだけに縛られたエンブレム選考をすると、なにやらトンチンカンな結果を招きそうで少々怖ろしくもあるのだが。

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