泣きながら一気に書きました

妄言コラムと気儘批評と悪戯短篇小説の巣窟

『若い読者のための世界史』(上・下)/エルンスト・H・ゴンブリッチ

世界史への入口として最適の書である。世界史アレルギーの人にこそお勧めしたい。大学受験で日本史を選択した僕も、その一人として読んだ。ちなみに若くはない。しかし門はここに開かれている。

とはいえ世界史の知識が、完全に網羅されているわけではない。しかし、「だから受験勉強には使えない」と考えるのは早計にすぎる。知識を叩き込む前に、吸っておくべき空気がある。触れておくべき因果律がある。それを「世界観」と呼んでもいい。

世界史にはまさに「世界観」と言うべきものがある。そりゃあ「世界」の歴史なんだから「世界観」もあるだろうよ、と思うかもしれないが、そう簡単にはいかない。ここで言う「世界観」とは、まさに漫画や映画で言うところの、あの「世界観」のことであり、単に「何でもあり」ということではない。

世界の歴史とは、むろん現実に起こった出来事であるはずなのだが、それは遠い昔や遠い国の現実であり、その「遠さ」は時間にしろ距離にしろ、ほとんどファンタジックなまでの「遠さ」なのである。事実として現実でありながら、感覚として現実でない。そこではある種、現実とは異なるものさしが必要になってくる。だから世界史に関しては、学び手の側も、その「世界観」に自らモードを合わせてゆく必要がある。まさしく、真っ暗な映画館へ足を踏み入れるときのように。

世界史とはつまり、壮大な「物語」である。大河ドラマである。そんなことはわかっている。問題は、なのになぜ、それを「物語」として感じるのがとても難しいのかということだ。これは高校であれ大学受験であれ、世界史を勉強したことのある人ならば、誰しも身に覚えのあるところだろう。

漫画や映画で考えればすぐにわかることだが、「物語」に入れないのは、基本的にはまずその作品の「世界観」に入ることができていないからだ。ではなぜ、「世界観」に入ることができないのか。「世界観」への入口は、いったいどこにあるのか。答えはやはり漫画や映画の中に見つけることができる。「世界観」への入口は、多くの場合「キャラクター」である。そして「キャラクター」は、生き生きとした感情を乗せることができる。だからより正確に言うならば、「世界観」への入口とは、「感情の乗ったキャラクター」である。

歴史の教科書や参考書では、通常、人物と出来事が淡々と記される。それらを読んでいて「物語」を感じることが難しいのは、そこに登場する人物から「キャラクター性」というものが、丁寧に排除されているからだ。むろん「登場人物の性格に踏み込んで描写する」という行為はある種「偏りの表現」でもあるから、独断や偏見を生まないために、教科書や参考書は、意図してそういう作りになっている。

本書において歴史は、徹底して「物語」として語られる。つまりここに登場する歴史上の人物たちには、読者の心に通じる「キャラクター性」がある。考えてみればそれは当たり前のことで、歴史上の人物たちは、けっしてロボットのように無感情無表情のままに、戦争や革命を起こしてきたわけではない。事件のきっかけには、必ずその当事者ならではの、固有の思考の働きがある。つまり人物のキャラクターというのは、物事の原因に深く関わっている。そしてもちろん、結果にも。当たり前の話だが、(天災の類を除けば)世界史とはすべて、人が起こした出来事なのである。

たとえば本書では、ヨーロッパからアジアにまで遠征し、巨大な帝国を築き上げたアレクサンドロス大王のキャラクターを示す、こんなエピソードが披露される。

《彼は、自分の持ち物すべてを友人たちにあたえた。おどろいて「あなたには何ものこらないではないか」と問うと、彼らに王は、「いや、未来がある」と答えたという。》

これぞまさに、すでに手に入れた地盤を固めるよりも、未知なる領域へと無限に手を伸ばし続けることを優先した、彼の業績に相応しい「キャラクター性」を象徴している。このエピソードを知ることで、彼の行動の基準となる発想を理解することができる。ここまで来てようやく、歴史上の出来事は、遠く生きている我々の腑に落ちる。

そして「キャラクター性」が付与されるのは、何も歴史上の個人に限らない。たとえば古代ローマ帝国の時代に生きたローマ人という民族の特徴について、著者はこのように書いている。

《彼らは、アテナイ人のように物事をすばやく判断し、多くを新しく発明する民族ではなかった。彼らはまた、建築、彫像、詩歌など、うつくしいことがらにあまりよろこびを感じることなく、人生とか宇宙について、深く考えることにも興味をもたなかった。しかし彼らは、いちど何かにとりかかると、それを最後までやりとげた。たとえ二〇〇年かかっても。》

これはあるいは、結果から逆算した、やや強引なキャラづけに思えるかもしれない。しかし著者がこのような「方向づけ」をしてくれることで、我々はこの時代のローマ人が行ったあらゆる出来事に関して、心の準備=受け入れ体勢をとることができる。それはつまり、古代ローマ人たちの「世界観」に一歩足を踏み入れることができるということだ。

「世界史」という大仰な冠をかぶっているからには、そこに出てくることの多くは、基本的に数十年数百年に一度レベルの稀有な出来事である。そんな特別な事件の背景に、興味深いストーリーが存在しないはずがない。この本のお陰で、僕はようやく「世界史」という血の通った「物語」に触れることができたような気がする。もちろん本書はその入口でしかないが、入口が見つけられなければその先へ辿りつくことは一生ないわけで、入口というものは、どの世界においてもすこぶる貴重なものであるに違いない。

広告を非表示にする
Copyright © 2008 泣きながら一気に書きました All Rights Reserved.