泣きながら一気に書きました

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「木の実ナナ」の対義語を考える

言葉には基本的に、反対の意味を持つ「対義語」というものが存在する。人の名前だって言葉である以上、そこにも対義語というものが常にあり得るのではないか。というわけで、人の名前の対義語を考えてみたい。なんの役にも立たないのは言うまでもない。

名前とはいえ対義語である以上、やはり漢字の意味が反対であることには最低限こだわりたい。たとえば、

哀川翔」の対義語→「喜山潜(きやまもぐる)」

というように。「喜怒哀楽」の「哀」に対しての「喜」。「川」といえば「山」。天を「翔る」の逆で地に「潜る」。すべての文字にしっかりと意味がある場合には、こういった一対一対応のマンツーマンディフェンスが可能である。「哀川翔」は「喜山潜」によって完全に打ち消される。

だが難しいのは、意味ではなくニュアンスによってつけれられている名前も多いということだ。たとえば、

木の実ナナ」の対義語→「貝殻ヌヌ」

意味的には、せいいっぱい反対を取ったつもりである。といっても、「木の実」の反対は他にも様々に考えられるからややこしい。つまり以下のような選択肢も、「木の実ナナ」の対義語として不正解であるとは言い切れない。

「魚の皮ヒヒ」
「鹿の骨ガガ」
ウイダーinゼリーモモ」

最後のは完全に「ウイダーinゼリーのモモ味」だと自然に受け止められてしまうこと請けあいだが、実のところこの中で意味的に最も「木の実」から距離があるのは、「魚の皮」でも「鹿の骨」でもなく「ウイダーinゼリー」であるのかもしれない。

難しいのは、距離があるからといってそれが対義語であるとは断言できないという点。この場合、「魚の皮」と「鹿の骨」は「木の実」と同じ土俵の上にあるが、「ウイダーinゼリー」は同じ食べ物ではありながらも、別の世界に属しているという感覚がある。そもそも時制が違う気もするし、何より世界観が相容れない。

それを反対方向と捉えるか、別次元つまりあさっての方向として捉えるか。後者であるならば、単に的はずれな解答であるとの印象でしかない。やはりスポーツのルール同様、「同じ土俵で勝負する」という基本条件は守られるべきであるのかもしれない。

ちなみに、「ナナ」の部分は、「とりあえず二文字同じカタカナを並べればなんでもいい」ということにして適当に処理しているが、これも、「ナ行で勝負すべき」と考えるか、逆に「ナナ」から最も遠い響きを持ってくるべきかで、大きく見解が分かれるところ。「ナナ」の反対は「ヌヌ」なのか「ヒヒ」なのか「ガガ」なのか。あるいは「梅子」なのかもしれない。

ところで、「Why Japanese People!?」という文字通り「キラー」フレーズでお馴染みの「厚切りジェイソン」の対義語としては、今のところ「薄塗りキャサリン」という案が有力である。響き的には「薄皮まんじゅう」が良いのでは?という案もあったが、「ジェイソン」が人名である以上、「まんじゅう」の部分が人名でないのはルール違反だ、という意見が浮上し、多くの支持を得た。

しかし一部の落語家によれば、「ジェイソン」と同じくらい「まんじゅう」は怖いものだ、ゆえに「ジェイソン」と「まんじゅう」は間違いなく同じ土俵の上にある、という意見もあったという。だとすれば、13日の金曜日にまんじゅうを食べると、とんでもなく怖いことになるだろう。そんな虚無的な会議が、いったいどこで行われているというのか。

結局のところ、「木の実ナナ」が何より最強だって話である。ジェイソンの斧でも割れぬ無敵の木の実。

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