泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

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ひな祭りちらし革命

いくらなんでもちらしすぎである。そんなにまでして何をちらしたいのか誰にちらされたいのか。僕らが小さいころはむしろあの直角三角形の、噛むと歯にねちゃりと粘りつく思いのほか軽量なあいつと小粒のあられがメインだったような気がする。

3月3日のスーパーは桃色に染まっていた。この時点で男にとってただでさえアウェイの地がさらにファーラウェイ。よりによって、本来男性客に対しても大きく心を開いているはずの寿司売り場がすっかり朱に染まっている。普段ならば握り寿司に比べて身分が低く、売り場の隅っこに肩身狭く膝を抱えて座っているはずの、だからこそ安価でつい手を伸ばしがちなちらし寿司群が、どういうわけかこの日は売り場の9割を占めている。これは明らかに革命である。旧態依然とした寿司界の身分制度がついに覆されたのだ。

と、無知蒙昧なふりをしてむやみに気分を盛り上げたいところだが、むろん現場を見た瞬間にそれが革命ではなくひな祭りゆえだということに気がついた。なぜ桃の節句にちらし寿司を食うのかは、調べても相変わらず全然納得がいかないが、なんとなくそういうことになっているらしいということは知っている。しかし去年までは、ここまでではなかったような気がする。持ち帰り寿司チェーン店のショーケースすらピンク色のちらし寿司で埋めつくされ、ちょっとした人だかりができている。

地域差などもあるのかもしれないが、いつの間にか幅を利かしてきた節分時の恵方巻きといいハロウィンの仮装騒ぎといい、近年明らかに年中行事の力が強まっている。これはやはりSNSの影響なのではないか。

誰が決めたわけでもないのに、SNSには報告義務があるらしい。今なにをしているか今日なにをやったか明日なにをするつもりか。それを互いに報告し合うことで、SNS上の大半のコミュニケーションは成立している。報告をサボればサボッたで、報告をしなかったことになにか意味があるのではと勘繰られてしまう。人は「普段なにをしているかわからない人」を極度に怖れる。

SNS上で「ひな祭りなのでちらし寿司を食べました」と報告する。それは端から見れば完全に「知らんがな」としか言いようのない不必要な報告だが、本人とその所属グループにとってはきっと結構重要なことなのだ。

もちろんそこには、「仲間はずれになりたくない」とか「みんながやってるならわたしも」という共有願望があるだろう。だがそこに働いているもっとも大きな感情は、ある種の罪悪感のようなものなんじゃないか。

本来は「やれば良いことがある」「やったほうが良い」というポジティブな行為であったはずが、周囲のみんながそれをやること(そしてみんながやっていることを知ること)でその行いの価値が暴落し、「やらないと悪いことが起こる」というネガティブな強迫観念にすっかり姿を変えている。「SNS上のつきあいでなんとなくやっている」という段階であれば気軽なものだが、「やらないと落ち着かない」というところまで来ると、これもまた一種の信心と言えるのではないだろうか。

と、ここまで書いてきたところで、このちらしブームはSNS云々とはまったく無関係なところにあるのではという気がしてきた。それは長引く不景気ゆえか共働きの忙しさゆえか単に面倒で無意味だと感じているのか、本来ひなまつりの主役となるべきひな人形を購入したり飾ったりするのがみな面倒になり、それをやらないことに対するせめてもの罪滅ぼしとして代わりにちらし寿司を食っているのではないかということ。お金がなくなると家族のレジャーを海外旅行から国内旅行へ、さらには国内旅行からディズニーランドや映画館へと格下げしてゆくように、今やひな人形七段飾りぐらいの重責がちらし寿司にすっかり覆いかぶせられているのではないか。

だとしたらむしろ信心は弱まっていると言えるのかもしれない。手近なもので軽く済ませようとしているのだから。とりあえずちらし寿司にお疲れさまと言いたい。

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