泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

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号泣会見という発明

それにしても号泣会見には度肝を抜かれた。少なくともこの一撃で生レバーが砂肝になるくらいには。

佐村河内、小保方と続いた謝罪会見ブームに、さらなるクリエイティヴな一手が叩きつけられた。これまで誰も思いつかなかったのだからクリエイティヴと言うほかない。野々村県議はもはやクリエイターを名乗って良いと思う。役者でもあるし放送作家でもあるかもしれない。

議会なら紛糾するし肩なら脱臼がふさわしいが会見に号泣は似合わない。しかし涙が似合わないわけではない。会見で泣く人はさほど珍しくはない。そこに泣く理由が明確にある場合には。それにしても号泣と呼べるレベルは珍しい。

しかし野々村県議の場合、泣く理由が見えにくい。明らかに自発的に、自分の中にしかない理由で泣きだしたように見える。そしてそのスイッチは、会見の途中明らかに自分の手で入れている。

感情的な質問が来たら会見を中止すると記者を脅迫し、そのくせ自らが感情の権化となり、最終的に記者の皆さんに言ったのに自分がなっちゃってすいませんと謝罪する自己完結的な展開もコントとして完璧である。単独ライブの開催が待ち望まれる。

とにかくこの人、なんだか閉じている。閉じているドアを無理矢理開こうとしたら、ドアごとガバリとはずれて中身が全部飛び出してきてしまったという感じで。そしてそのドアを最後にトントンと自分で釘打って直すところが滑稽で哀しい。哀しみと笑いはやはりつながっている。

謝罪会見もさすがに食傷気味かと思われたところに、「まだまだいける!」と太鼓判を押すように繰り出されたこの一手。「髪を切りグラサンをはずして別人のようにしれっと登場する」「小学校の学級委員のような甘ったるい口調で未知なる存在を主張する」「咽び泣く突拍子もないハイテンションで内容をうやむやにして煙に巻く」と来たら、次なる一手は非常に難しい。明らかにハードルは上がりきっているように見える。

だがいつだって限界を乗り越えてゆくのが人間の力である。謝罪のエンターテインメント化はとどまるところを知らない。そんなことより謝罪せずにすむ方向に、そのクリエイティヴィティを使用していただきたいものである。なんてことは言ってもたぶん意味はない。

人間の創造性は追い込まれた場面で発揮されることが少なくない。謝罪会見という場面が「追い込まれた場面」の筆頭に挙げられる以上、そこはやはり創造性を存分に発揮するための最高のステージになり得るだろう。「最高」を「最低」に言い替えたほうが良いかもしれないが。

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