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泣きながら一気に書きました

妄言コラムと気儘批評と悪戯短篇小説の巣窟

デジタルな店員

あらゆる業種の店員がデジタル化している。デジタルというのはつまり中間領域のない0か1かの世界。どんなに数値を細かく刻んでいっても、結局のところその構成要素は0か1でありYESかNOだ。そこには「いい按配」というものが存在しない。柔軟性など望むべくもない四角四面な世界。

だから今どきの店員に、何かちょっとしたリクエストでもすると大変なことになる。結果論的に「涙のリクエスト」になる。泣くほどではなくチェックの衣装も着用していないとしても。

とあるファミレスで定食と珈琲を頼む。「珈琲は食前と食後、どちらになさいますか?」と訊かれたので「食事と同時に」と頼むと、店員は怪訝な表情をしたのち、「あの〜食前か食後かなんですけど?」と同じことをもう一度繰り返す。会話はすでに前へと進んでいるのに、先の回答を馬鹿のひとつ覚えの如く流用し、それでいて恬然とファイナルアンサー面をかますのは脳が硬化している人間の典型的言動である。

客側から第三の、オルタナティヴな選択肢を提示することは、常にトラブルを誘引する危険性を孕んでいる。もちろん「同時」が可能な飲食店も少なくないはずだが、どうやらこの店のマニュアルにはないらしい。マニュアルにないなら訊かれた店員が自ら可能/不可能の判断をして答えるしかない。だがこちらが「いや、できると思いますけど……」と呟くと、その店員は悩んだ挙げ句奥にいる店長のもとへ確認に走り、数十秒後にようやく「できるみたいです」という曖昧な返事をよこす。できないはずがない。

しかし厳密に考えていくと、本当は「できない」という答えが正しいのかもしれないという疑念に陥る。実のところまったく陥ってはいないが陥ったふりをしてみよう。

定食の盆に珈琲は乗りきらないから、どうしても盆と珈琲を別々に持って来ざるを得ず、「どう頑張っても盆に乗った定食とソーサーに乗った珈琲のどちらかが必ず数秒遅れる」という判断の下に店員は「できない」と答えたのかもしれない。

あるいはギチギチに詰めて両者を同じ盆に乗せて持ってくることができたとしても、その盆をテーブルの上へ完全に水平に着地させることはたしかに難しく、珈琲が乗っているサイドとご飯茶碗が乗っているサイドの着地のタイミングが、コンマ何秒かズレてしまうという可能性を危惧しているのかもしれない。だとしたらその精度感覚は見上げたものだ。数秒あるいはコンマいくつの遅れすらも「同時」と認めない。ならばそれを要求したこちら側も、目の前に配膳されたすべてを完全に「同時」に胃の中へ流し込むという離れ業で応えるべきだ。

だがもちろんそこまで厳密な同時性を要求する無茶な客はいないし、店員もそこまで考えているとは到底思えない。単に「マニュアルにない答えが返ってきた」というだけのことだろう。要求の真意を読み取る能力に著しく欠けている。それは能力というよりは姿勢の問題であり、その姿勢をサービス精神と呼ぶ。姿勢がなければ能力は育たない。

ちなみにこういう注文をしたのは僕ではない。個人的には、柔軟な対応が期待できない店、期待できない人にプラスアルファの何かを頼むべきではないと思っている。いやそれはプラスアルファでも余計なリクエストでもなんでもない「順当な提案」でしかないのだが、そういう人間からすると、どうも都市伝説レベルの「あり得ない話」に響くらしい。「馬鹿とハサミは使いよう」という故事成句があるが、それは「使い手が工夫しろ」というメッセージではなくて、本当のところは、「単純にしか使えないものに複雑な動きを要求するな」という意味だと思っている。ハサミで瓶の蓋をこじ開けようとすると怪我をする。

だがもちろん、期待できないとわかっていても頼まなければならない場合がある。その店で買ったものはその店に修理を頼むのが筋、といったケースがあるわけで。

眼鏡のネジが緩くなって視界がグニャグニャするので、眼鏡屋にネジを変えてくれるよう頼みに行った。なぜだかは知らぬが異様な長時間に渡り立ったまま待たされた挙げ句、返ってきた眼鏡のネジはたしかに別物に変わってはいるが緩さはまったく変わっていない。これならば変える必要がない。「なんのためにネジを変えるのか?」という当初の主目的など、どうやら完全に視野の外にあるらしい。締まらないネジになんの意味があるというのか。

ではネジの問題ではなくネジ穴のほうの問題なのかと思いきや、改めて別の日にもう一度別のネジに変えてもらったらちゃんと締まって返ってきた。なんだできるんじゃあないか。しかしよく見ると左右のネジの形状が明らかに異なっている。右のネジ頭のサイズが左の二倍ある。こんな不細工な眼鏡は見たことがない。これは斬新な嫌がらせなのだろうか。

やんわりとそれを指摘したらまた別の見たことのないネジで左右揃えられて返ってきた。やはり当初のネジとはだいぶ違うものの、キリがないのでとりあえずそれで納得することにしたが、なぜ最初からこれができないのか。最初からこちらが「締まるネジでお願いします」「左右同じネジでお願いします」とまで言わなければならないのか。いや「緩くなっているのでネジの交換をお願いします」と最初に言ったはずなのだが、それでも「締まるネジ」と言う必要があるというのか。

一方で、細かな意志統一の難しいチェーン店でありながら、ハンバーガーからレタスを抜いてくれといえば抜いてくれたり、牛丼からたまねぎを抜いてくれといえば抜いてくれるという一見良心的な店もある。だがそれはサービス精神というよりは、単純に過去のデータをきっちりデジタル化してマニュアルに反映させているということだろう。もちろんやらないよりはそのほうが遙かに良いが、それもまたデジタル化の一種であることには変わりなく、その数値が細かくなったというだけだ。

これまでは1,2,3と並んでいた数字の間に、0.5や1.5といった中間的な数字が付け足されてゆく。それはたとえば「牛丼並盛り」を1、「牛丼大盛り」を2と定義しているマニュアルに、「牛丼並盛りのつゆだく」という1.5を、「牛丼大盛りのつゆだく」という2.5を、想定可能な選択肢として付け加えてゆくという機械的な作業に過ぎない。

理論上はその数値が細かくなればなるほど人間の心に近づくことになるはずだが、そのようなデジタルな処理方法では、やはりどこまでいっても人間特有の「按配」や「機微」を理解できることはないのだろう。とはいえこれは機械の話をしているのではなく、人間の話をしているのだが。

どうやら人間のデジタル化が進行している。もしかすると自分も例外ではないのかと思いはじめ、あり得ない方向に関節をねじ曲げたりしてみる。

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