泣きながら一気に書きました

妄言コラムと気儘批評と悪戯短篇小説の巣窟

退屈な街を生み出すマーケティングの呪縛

気がつけば近所に鍼灸院、整骨院、マッサージ店、薬局が異様に増えている。高齢化社会なんだと思う。

あるいは年齢に関係なく、パソコンやスマホの長時間使用による疲労困憊、飽食による肥満から来る体調の悪化、他人の芝生ばかり青く見えるSNSコミュニケーションによる精神疲労。

原因は数多あれど、近ごろ明らかに街のバランスが壊れている。書店もレコード屋も次々に消え、震災以降は八百屋がいくつも潰れた。ラーメン屋が潰れて「お前もか」と思ったらそこにまた別のラーメン屋が出来て安堵するがチェーン店に変わっている。

携帯ショップの向かいに携帯ショップがあって、その二軒隣にまた別の携帯ショップが開店する。これが20世紀の人類が想像したサイバーシティーの姿なのか。少なくともSF映画では観たことのない光景である。

ひとことで言ってしまえば、これが資本主義社会の成熟した姿だということだろう。マーケティングが進み、需要に合わせて供給をするとこのような偏りが当然生まれる。「需要」と言えば格好いいが、要はやりたいことではなく売れることをやるしか選択肢がないということである。

今売れてるものを売る。その言葉には説得力があるように思えるが、マーケティングデータ上に表れる需要とは、常に過去のものだ。厳密に今を、未来をデータ化することは不可能であり、過去のデータを元に未来を予測することしかできない。そしてその予測は、株や競馬のようにわりと外れる。過去のデータを穴の開くほど眺めてみても、見えてこない未来がある。

それでも過去の需要をベースに商売を考えなければならないのは、背に腹はかえられぬ不景気のせいだろう。上がりの見えない企画は通らない。実績のないアイデアは、その実績のなさのみを理由に却下される。だが過去の中に未来へのヒントはあるが答えはない。なのに過去のデータの中に答えを求める人間が多すぎる。

「向かいの薬局が繁盛しているのでウチも薬局をやることにしました」「近ごろスマホが売れてるので携帯ショップにします」そんな短絡思考が透けて見える店ばかりが街に並んでいる。書店には似たようなタイトルの新書が並んでいる。テレビには似たような顔に作られたタレントが並んでいる。それらは既にあるマーケティングデータを基に作られ、集められたものだ。

もういい加減、このマーケティング至上主義を見直すべきときが来ているのではないか。「マーケティング」と呼べば聞こえはいいが、単に流行に乗り、堂々と右へならえをしているだけである。そうすれば何も考えなくて済むし、確固たるデータに基づいてやったのだから、失敗しても自分を責めずに済むのかもしれない。だがデータというのは過去の流行に過ぎず、未来に対してはなんら確固たる保証など与えてくれはしない。

しかし結局のところ、データや実績がないとお金を集められない、発想や企画力だけでは誰も動いてくれない、という現実がある。なぜそうなるかといえば、お金を出す側の人、貸す側の人に余裕がなくなってきているからで、確証の持てないものにお金など出せなくなっているからだ。とはいえ確証の持てる対象にならば、お金を出す余裕は依然としてあるのである。

だが先にも言ったように、確証の持てることなど、少なくとも未来には存在しない。むしろマーケティング戦略に基づいた二番煎じがコケる確率の高さを、今や誰もが感じているはずだ。マーケティングデータという過去問にしがみつく受験生のような「傾向と対策」が、きっと貧困な発想と退屈な街を生み出している。

この街の症状を改善する特効薬を売っている薬局なら、いくらオープンしてもらってもいい。あ、それも一軒しかいらないか。

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