泣きながら一気に書きました

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映画評『コクリコ坂から』

作品には「場所の力」というものがある。

人が場所を作るように場所もまたある程度人を作るから、「場所の力」というのは、本来人を描くべき物語の構成要素として非常に重要なものだ。

そしてこの作品には、驚くべきことに「場所の力」しかない。良くも悪くも本作は、ただただ「カルチェラタン」というレトロなクラブハウス(というか「部室の集合体」)を丹念に描くことでのみ成立している。

逆にいえば誰も彼もキャラクターが弱く、そのキャラが弱い原因はひとえに「悪意の欠如」による。時に「自分の作品には好きなタイプの人物しか出したくない。わざわざ嫌な人間など描きたくない」という作家がいるが、そういう不自然な制約の中で作られた作品の登場人物は、当然だが人物の性格が一面的になり奥ゆきが感じられない。裏地のない服のような薄っぺらさが拭えない。

宮崎吾朗監督が実際に「嫌な人を描きたくない」と思っていたのかどうかはわからない。どちらかというと、「描けない」といったほうが正確だろう。だからこそジブリは、嫌な人間や得体の知れない妖怪的生物の出てこないプレーンな原作を、吾朗監督に任せたのだとも言える。そしてそのマッチングは、思いのほか成功している。味は薄いが悪くない。むしろ雑味のなさこそが、作品の魅力になっている。

今回テレビ版で初めて観た(つまり「映画館で観るほどではない」という程度の自分内期待値だった)のだが、実は冒頭15分間における「つかみ」の驚異的な弱さを前に、途中で観るのをやめようと思った。いやほんと、驚くほど状況説明が平坦でツルッと流れてしまって、まったく設定が心に届かないまま、穴の開いたような気持ちで前半を眺めた。

ようやく気持ちをつかまれたのは、カルチェラタンの細かな描写と、親子関係に何かあるというキナ臭い雰囲気が漂いはじめてきてからで、立ち上がりの悪さが物語全体のスピード感をスポイルしてしまっているのは間違いない。だがこのゆったりとした、危機感のない立ち上がりの緩さこそが、いかにも「物事にがっつかない二世監督」という感じを象徴しているようでもあって、向き不向きでいえば明らかにこういった緩やかに始まる作品のほうが、この監督には向いているのだと思う。

物語の縦軸は「カルチェラタンの存亡」と「主人公まわりの親子関係の謎」の二本だが、後者に関しては説明だけであっさり済まされた肩すかし感も残った。だがそれも、人ではなく「カルチェラタンという魅力的な場所」こそが主人公なのだと考えれば、特に発展しない恋愛関係も、何が変わるわけでもない親子関係も脇役に過ぎないわけで、要はカルチェラタンという場所にワクワク感を感じられたかどうかが、この作品の是非に直結しているのだと思う。

そういう意味では、昭和という時代にノスタルジーを感じる世代かどうか、あるいは母校にこういった古い建物があったという実体験があるか否かで、作品の評価は大幅に変わってくるだろう。全体にファンタジックな大風呂敷を広げなかったことで、コントロールできる範囲内で上手く成立させたということもできるし、「ジブリならばこの上を目指さないと駄目でしょう」という物足りなさも残る。

「場所の力」は大事だが、やはりそれだけではこの上には行けないだろう。悪意と善意の入り交じった血の通ったキャラクターが、どうしても必要になる。

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