泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

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早合点放題

今という時代におけるコミュニケーションの行き違いの多くは、「早合点」によるものだなあと、最近つくづく感じている。単純に言ってしまえば問題はもちろん「早」の部分で、ネットや携帯の普及により情報交換のスピードが格段に速くなった結果として、肝要な箇所を取りこぼしたままコミュニケーションが進んでしまうケースが頻発するようになるという仕組みを仮構築してみる。

人間というのは基本的に、他人の話を聞いていない。これは悲しい大前提なのだが、本当のところそういうことなんだと思う。

いや正確に言えば、「他人の話の一部しか聞いていない」ということになるだろうか。つまり聞いている箇所はちゃんとあるのだが、むしろ一部だけ聞いているのが諸悪の根源となる。たとえば「最初に9割褒めて最後に1割だけ苦言を呈す」という文法を話し手が使ったとして、受け手は最後の1割だけを聞いていたがために、その「苦言1割を10割として受け取る」というような想定外の悲劇が起こる。

つまり本当に悪いのは、1割しか聞いていないという事実よりも、その1割を話し手に無許可で勝手に10割に拡大してしまう受け手の無闇な想像力だったりする。むろんその逆もあって、1割だけお義理で褒めたものを、10割の褒め言葉と受け取って絶対的な自信に変えるというマジカルな思考回路を保持しているエスパーも少なくない。そういうポジティヴシンキングの権化は、「そもそもあなた、10割の自信を持っているようだけど、それどう見ても1割ですよね?」というような事実を指摘されると、とたんに壊れる。自信過剰が引き起こす多くの悲劇とは、このように、ある種都合のいい「早合点」からスタートしている場合が多いのではないか。

これは「自分にとって都合の悪いところや良いところだけを受け取る」という意図的な「早合点」の例だが、もちろん本来の「早合点」の意味でいえば、受け手はもっとうっかりしていなければならない。事実、このネット環境の中で、人はかなりの「うっかりさん」になることを余儀なくされている。余儀なく。

たとえばある程度の長さを持つメールを受け取ったとき、件名と一段落目と最後の一行しか読んでいないのに、すべてを隈なく読んだことにしている場合が多くはないだろうか。ウェブ上の文章も、基本的に我々は、そういう「斜め読み」をするのが当然になってはいないだろうか。見出しとキーワードだけを拾って、行間を勝手に埋めて一本道に要約してはいないだろうか。それは圧倒的な情報量を前にした人間が取る、ある種の防御本能(とても全部を読んでいる暇はないから)なのかもしれないし、あるいは「この文章の内容を30字以内に要約しなさい」的な元も子もない国語教育の賜物なのかもしれない。

もともとインターネットは情報ツールだというのが皆の共通認識としてあるから、そういう拾い読み斜め読みというのは、ある意味でインターネットにアジャストした理想的な読み方なのかもしれない。ネットでニュースを見る際には、「何が題材となっているか」がすべてであって、「どう語られているか」にまで意識を向けた読み方をする人は多くないだろう。しかし今やウェブ上であれTwitter上であれ、情報以外の温度感のある文章も普通に紛れ込んでいるわけで、そういうものにまで「情報処理的な読み方」しかできない人が増えているというのは、おそらくは自然な流れだが非常に残念な気持ちにもなる。

たとえば情報的な意味からすると、是々非々の入り交じった文章というのは「論旨が絞れていない」という意味で駄文に価するのだろうが、文学的な意味でリアルな文章というのは、基本的にむしろ「そうで(是々非々が入り交じって)なければならない」と言っても過言ではない。甘さと辛さが入り交じって味に深みが出るように、味わいのある文章というのはある種の矛盾を常に孕んでいるもので、逆に混じりっけのない論旨の絞れた文章というのは、単に下手な料理というだけに過ぎない。論旨を絞るというのはつまり、「自分の中の少数意見を『不純物』として切り捨てる」というプロセスを経て絞れていくわけで、その「不純物を切り捨てる」という過程の中に大きな嘘がある。その「不純物」とは、結果として捨てたから「不純物」と呼ぶわけであって、捨てる前は「不純物」ではない。それは多数決の論理で、少数意見がすなわち間違っているわけではないというのと同じように。うまみ成分というのは、そういうところに存在する可能性も少なくないし、「果物の皮と実の間のところが一番甘い」とかいう場合があるように、是と非の間にあるところが一番うまいのかもしれない。

そういう「うまみのある文章」を探すとなると、どうしても古い文学にたどり着いてしまって、そもそもこの文章を書くきっかけとなった「早合点」という言葉も、いま読んでいるゴーゴリの『死せる魂』から拾ってきたものだ。つまり19世紀ロシアにも、今ほどではないにしても「早合点」によるコミュニケーション不全という問題があったわけで、そうなるとこれはやはりネット社会云々ではなく、そもそも人間が抱えている普遍的で根本的な問題(やっぱり人間は人の話を聞いていない)なのかもしれないと、ぐるり一周してこの話を終える。

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