泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

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【なんとしてもポジティヴに終わる話】 捨て気な捨テッカー

若者は何かにつけステッカーを貼りがちだがステッカーとはつまりメッセージであり彼自身である。若者とは「自分が何が好きか」をアイデンティティとしたがる生き物であり、しかしそれは文字通り「外付け」のアイデンティティであって懐に内蔵されたものではない。外部によって本体を語ることに無理があるのは当然というか手順として明らかに間違っているが、多くの人は内側を語る言葉を持たないから「自分の好きな物」という外部を語ることで自分を語ったことにする。置き換える。そのとき自分自身はすっかり棚に上がっている。棚だらけ、ロフトばかりの広い部屋。

というようなことを考えたのは、薬局の前に停まっている自転車に「YouTube」のロゴステッカーが貼ってあるのを目撃したから。

これは果たして格好いいのかどうなのか。そしてこの自転車の持ち主は、このステッカーにより何を表現したかったのか。さらにはその延長線上に、YouTubeを好む彼をどのような人格として把握してほしかったのか。

基本的にあまりに幅広い回答というのは、意味をなさないことが多い。たとえば「趣味は何ですか?」と訊かれたときに、「楽しいこと」と答えたらそれはほとんど何も言っていないに等しい。同じく「スポーツ」と答えることが、「草野球です」と答えることに比べて低級であるのは、大雑把な答えが受け手に何のイメージも想起させないからだ。音楽の趣味を尋ねたときに、「何でも聴くよ」と即答する奴は間違いなく何も考えず何も選んでいないだけであって、これほど手がかりがなく無意味な回答はない。「何でも好き」「全部好き」というような全能感あふれる言葉は、「なんでもいい」「誰でもいい」「どうでもいい」という怠惰な思考の投げやリズムのポジティヴ風味な言い換えでしかない。

さて翻ってYouTubeとは何か。YouTubeとはもはやすべてであって何ものでもない。少し前ならばそれを好きだと表明することで、「YouTubeが好きな俺」=「最先端な俺」「マイナーなものをあえて好む俺」「情報発信基地な俺」をアピールできたかもしれないが、今やそんな春一番の時期はとうに過ぎ、それはもはや「普遍的なメディア=単なるプレーンな入れ物」でしかない。つまり今YouTubeを好きだと主張することは、「なんかでっかい袋が好き」と言っているに等しい。中にダイヤモンドが入っていようがお気に入りのスケボーが入っていようが馬糞が入っていようが、その袋が好きなのだと言ってしまえるその恐るべき鈍感力。

それはある意味では袋の大きさに比例して器の大きさを示していると言えるのかもしれないが、どんなに大きな器でも馬糞が詰まっていたら意味がないどころか、むしろせめて小さくあってくれと願う。肥料として求めているならば話は別だが。

YouTubeのステッカーを自転車に貼っていたあいつ(誰だか知らないが)は、「好きな音楽は?」という質問に、「何でも聴くよ!」と自慢げに答えてくれるに違いない。彼のような人間(改めて言うが誰だか知らないし男かどうかもわからない)が、TRFの音楽に乗せて布団をリズミカルに叩く騒音おばさんの向かいに住めば、「何でも聴かせる←→何でも聴く」のフィーリングカップル成立でこの世はほらWin-Winの関係さ。


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