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泣きながら一気に書きました

妄言コラムと気儘批評と悪戯短篇小説の巣窟

嵐を呼ぶ傘おちょこ3人衆

コラム

きのう台風中継のニュースを観ていたら、ものの1分ほどの中継時間のうちに、傘をおちょこにする人が3人も次々とリポーターの後ろに映り込んできて、リアリティについて考えさせられた。3人は明らかに多すぎる。祭りだ。

中継を観たときの感覚では、1分間のうちに1人がリアルな範囲、2人だと「あれ?」となって、3人だと完全にコントという印象。しかも3人はほぼ等間隔に送り込まれ(いや本当に通りすがりである可能性もないとは言えない)、きっちり画面の真ん中に来たあたりで傘がちょうどよくひっくり返るシーンを見せつけてくれたのだった。バミってあるとしか思えない。中にはなかなかうまく傘がひっくり返らず画面中央で粘っている人もいて、よく時代劇コントで、斬られたのにカメラ目線でクネクネして叫ぶばかりで全然死なないという古き良きパターンがあるが、まさにそんな按配でよく訓練されているなと感じた。

そもそも台風中継というのはリアリティ以外に目的のないもので、単にリアリティだけを求めて(求められて)リポーターはわざわざ雨に打たれに行く。しかしその突入行為のわざとらしさは、傘をカメラの前でおちょこにするわざとらしさと何ら変わりはなく、よく考えてみればフィクションとしてのレベルはちょうどいい具合に揃っている。ひとつの場面の中で、複数の要素にわたって嘘の度合が揃っていれば、そこに何らかのリアリティは確実に発生する。小説や映画や漫画を考えてみればわかるが、たとえばタイタニック号のあの有名な十字抱擁のポーズは、タイタニック号がケタ外れに大きく豪奢で、さらにはとんでもない大事故の中にあるからこそ成立する。平穏な屋形船の船首ではあのポーズの強度に耐えられない。

中継は新宿駅からのものだったが、「いくつかの電車が止まっている状況」と「風雨に打ちひしがれるリポーター」と「傘がおちょこになる人が多数出現」という三要素は、ひとつのシーンとして完全にフィクションのレベルが揃っていた。しかし実のところ一番フィクション度合が高い、つまりもっとも意図的に行われている行為は明らかに「風雨に打ちひしがれるリポーター」の存在なのは間違いない。内容的には、レポーター本人が雨に打たれる必要はまったくなく、通行人が雨に打たれている様子を捉えてさえいればそれでいいのだから。だが、観る側としてはすでにその「突撃リポーター気質」の部分は当たり前のものとして受け入れてしまっているため、むしろ「通行人が雨に打たれている様子」という自然な映像の延長線上にある「傘がおちょこになる人が多数出現」のほうが怪しく映ったということだ。

フィクションのレベルが揃うとリアリティが増すのは確かなのだが、揃いすぎると途端に「揃えにいった」作為感が出て、観る側は制作者サイドがどこをどう揃えにいったのかが気になって仕方なくなってくる。だから基本的にやらせ問題とか言われるものはこの、後から「揃えにいった」箇所がきっかけとなって表面化することが多い。この場面において「傘おちょこ3人衆」がやらせなのかどうかはわからないし、別に笑わせてもらったからそれでいいのだが、実は「やらせ」が確実なのは「リポーターをわざわざ風雨の中に立たせていること」のほうなのだということが興味深い。つまりひとつめの「やらせ」は自然と許されるというか、言い換えれば「設定」や「前提」として了解されるということで、ノンフィクションを旨とするニュース番組であっても、こういった「設定」としてのフィクションが持ち込まれるのは当たり前の手段なのだとわかったうえで観るべきだということだろう。

だがこうなってくると、「風雨にあえてさらされるリポーター」だけでなく「傘がおちょこになる人が多数出現」するあたりまで「設定」としてニュース内で許容される段階に来ているような気もして、となると次に来るべきはいよいよ「カツラの飛翔」あたりなのではと期待はふくらむ。まずは強風でリポーターのカツラがふっ飛び、それが許されたならば通行人のカツラが飛び、さらにはその人数がどんどん増えてゆき、飛翔したカツラは次々とおちょこに。そのうえ飛ばされたカツラを鷹がくわえて画面外へと飛び去ってゆき、それを追いかけて走るカツラレスのおっさん集団の後ろ姿から、シームレスにカツラのCMへ……というところまで許されるようになると、日本はもっと平和な国になるかもしれない……とは別に思わないが、面白いならいい。

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