泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

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雰囲気人生訓

我々に生きるヒントを惜しみなく与えてくれる人生訓に必要なのが雰囲気だけだというのは、意外と知られていない。

たとえば「犬も歩けば棒に当たる」なんてのはその典型で、意味は何もないどころか、すっかり真逆のことを同時に言ってしまっているという始末。犬にとって棒が一体なんなのか、幸運を意味するのか不運を意味するのかわからぬままになんとなく頷かされてしまう。逆に言えば、人生訓とはそういうものなのだ。そういうのでいい。いや、そういうのじゃなきゃ駄目なのかもしれない。

なぜならば、ぶつかったものが、拾ったものが自分に幸運をもたらすか不幸を招くかなんて、誰にも(犬にも)わからないのだから。一億円拾ったことで人生を棒に振った人だっているはずだし、電柱にぶつかったショックでビジネスチャンスをひらめいて億万長者になった人もいるかもしれないのだ。

だから一方向を明確に示すことのない、アバウトで無目的な言葉のほうが、人生訓としてはポテンシャルが高いと言える。いいんだか悪いんだかわからない。何を言ってるのだかわからない。要するに、何か意味ありげな雰囲気しかしない。それこそがリアルな人生訓となる。なぜならば人生とは、そういうものだからだ。

そう、「人生とはそういうものだ」というこの言葉、これさえつければ、すべてが人生訓になるということを私は発見した。基本的に我々の目の前にある出来事のどれもが我々の人生の一部であり、我々の発する言葉も我々の人生の一部である以上、すべての言動は我々の人生の一部であるということで、つまり何もかもが「人生とはそういうものだ」というフレーズでくくり切れるのである。

これは大変なことになってしまった。今日からすべての出来事に人生を見出さなければならなくなった。ではさっそく人生を見出してみたいと思う。といってもあったこと思ったことを言ってみて、そのあとに「人生とはそういうものだ」を足せばいいだけなので驚くほど簡単だ。

「カナブンが網戸にとまったまま死んでいる。人生とはそういうものだ」

解釈によって諸行無常とも粘り腰とも取れる、なかなかに両義的な光景ではないだろうか。「なんかしょうがないよね」という諦観なのか「死んでも手を離すな」という力強いメッセージなのか。あるいはカナブンの本来の死に場所が木や土であると考えると、「カナブンが網戸で死んでいるように、人も死に場所や死に時を間違えてしまうものだ」という先人の教えか。方向性がないほど解釈の自由度が高まるという典型的な一例である。

では次のような人生訓はどうだろう。なかなかに適当な思いつきを、無理やり人生全体に引き伸ばしてみる。

「《こちら側のどこからでも切れます》と書いてあるのに、どこからも切れない。人生とはそういうものだ」

通称「マジックカット」というやつである。カップ麺の類に付属している小袋に、《こちら側のどこからでも切れます》と魔法のようなことが書いてある。外周に切り込みもギザギザも見当たらないのに。しかしその言葉を信じ力を込めてカット体勢に入ってみると、どこもかしこもビクともしない。多くは麺の油が袋に付着していたり、手が濡れていたりという外的要因によるが、たまに整ったコンディション下でも頑として切れないディフェンシブなやつがいるので侮れない。

ではこの人生訓は何を意味しているのか。もちろん思いついた時点で何も考えていないので意味は皆無であるべきなのだが、人生とは何からでも無理やりに見出すものだ。書き手の意志も意図もいっさい関係がない。

たとえばこれは、「なんでもいいと言ってる人は、実のところなんでもよくない。いやむしろ、全部却下」という事象に当てはめて解釈することが可能だ。「何食べたい?」と聞かれて、「俺何でもいいよ」と答えておきながら、こちらが提案したラーメンもパスタも寿司も焼肉も、「んー、そういう気分じゃないんだよね」と断る奴。「オールOK」からの「全却下」。あるいは、「顔とか全然関係ないですぅ〜」とトーク番組で公言していたアイドルが、直後にイケメン以外何ひとつ特長のない男と婚姻する風景。まあひとことで言うと「人は嘘をつく」ということになるかもしれないが、それを直接口にしてしまうのは野暮というもの。雰囲気がないところには説得力もない。

最後に、先ほど台所で思いついたことを人生訓に加工して置き逃げしたいと思う。もちろん意味を聞かれても困る。特に面白くもない。しかし間違いなく人生はそこにある。

「洗うべきコップばかりが増える。人生とはそういうものだ」

洗えば減る。

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