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泣きながら一気に書きました

妄言コラムと気儘批評と悪戯短篇小説の巣窟

I don't know,I think so.

コラム

世の中には、「一見正反対に見えて実は同じ」というものがある。たとえば「パンツは裏返しにはいてもパンツである」とか、そういうことが言いたいわけではない(それも真実だが)。宗兄弟やおすぎとピーコの話でもない(きんさんぎんさんでもないようだ)。適切な例がひとつも思い浮かばないのに、なんとなく枕として必要だからこういう入りかたを選んでしまった。なのでとっとと本題に入る。

「知らんがな」と「そうですね」は実のところ同じ用途である。そう、ただこれが言いたかった。いや正確に言うと本当に言ってみたかっただけで、とりあえずそう言ってみてから辻褄あわせにいろいろと考えてみたら本当にそうだった、というパターンのやつである。「何を言ってやがるこのちりめん山椒が」と思った人は、存分にそう言いながら間違って丹後ちりめん(絹織物)を食うがいい。食えたとしたら人間ではないのでそんな奴に何を言われたって平気の平左(左とん平)である。

普通に考えてみれば、この二つはほぼ正反対の意味を持つ言葉だろう。相手の言ったことに対し、同意できぬ場合は「知らんがな」、同意できる場合は「そうですね」で対応することが可能である。概ね「否定」と「肯定」という対義的ニュアンスを感じ取ることができるはずだ。

「知らんがな」「そうですね」両者ともに一般的な言葉ではあるが、前者は雨上がり決死隊がラジオ番組内でコーナー化したことにより全国区になった言葉であり、後者はもちろん『笑っていいとも』でタモリが投げかけた空虚な質問に対し客席が声を揃えてこたえるお約束のフレーズとして有名である。

そしてこの二つの言葉は、どちらも文字通りの意味にとどまらない。「知らんがな」は「知らないよ」というだけの意味ではなく、その先には「興味ねえよ」「勝手にやってろ」「わざわざ言うな」というニュアンスが確実に存在し、一方「そうですね」は単なる「同意」の遙か先にある「全肯定」「博愛主義」の段階へと達し、その博愛主義が広がりすぎて薄まり切った挙げ句「なんでもいい」「どうでもいい」という無我の境地に至った。

つまりこの「知らんがな」「そうですね」という本来正反対の二語の意味するところは、ここへきて「どうでもいい」という至極投げやりで空虚な一点において奇跡の邂逅を果たしたのであり、まさに「どうでもいい質問に対する模範回答」として任意に選び取られる運命となったのである。

だが同じく意味の変容を経て無我の境地に辿りついたとはいえ、関西弁の「知らんがな」がまだストレートな字義どおりの意味を残しているのに対し、標準語の「そうですね」がほぼ肯定から否定へと意味を覆しているのは、言葉本来の意味からすると非常に罪深い裏切りであると言える。タモさんの「今日は午後から雨みたいだね」という質問に対してアルタの客席から発せられる「そうですね」の言葉は、まぎれもなく「知らんがな」と同様のニュアンスを持つ「そんなことどうでもいいよ」という却下の意思表示であるわけで、それを言う観客たちの楽しげな笑顔も含め、非常にねじれた構造がそこには存在しているのである。

――そうですね!

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