泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

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『バクマン。』10/大場つぐみ・小畑健

アニメ化のタイミングに合わせて、一気に面白くなってきた。いや、一気に面白くしてきた、というほうが正しいかもしれない。その力の入れようは、主人公たちが描く作品、つまり漫画内漫画の充実度が物語る。

これまでは単に方向性を示すためのみに提示されていたような漫画内漫画(そしてそれは、物語の1パーツとしては充分な役割を果たしてきた)が、ついに「これは実際に連載したらヒットするはず」というクオリティを提示してきた。丸ごと使える作品アイデアを、作中に登場させることがいかに難しく、作者がついそこをケチりがちかというのは、多くの作品の作中作品のレベルの低さを見ればわかるだろう。

例えばお笑い芸人を目指す漫画の中に登場する漫才やコントは、明らかにその作品自体が持つ笑いに比べて、ひとまわりベタだったり古かったりする。ストーリーを進めるためのパーツとしては、それでもたしかに機能は果たせるのだが、肝心の主人公の才能が伝わってこないため、それでは読者の声援を得るのが難しくなる。

バクマン。』にもここ数巻はその傾向が少なからずあって、特に作品内最近作であった『タント』に関しては、その作品の弱さが成立過程の退屈さにもつながってしまっていて、明らかに失速の原因になっていた。それは読者が主人公の才能に疑問を抱きはじめていたからで、とはいえ主人公も編集部も苦難を乗り越えるための時期設定であったから当然といえば当然なのだが、展開の速い本作にしては、その低迷期=タメの時期は、結構長く感じられた。

だがここへ来て、作品内作品の大幅な質上昇に伴い、その成立過程までをもパワーアップさせてきた手腕はさすがとしか言いようがなく、「じゃあここがいよいよ山場で、これ以上はないんじゃないか」とまで思わされてしまうのは、作者の思う壺といったところなのか本当にそうなのか。

そしてここで登場する新たな作中作品『完全犯罪クラブ』をいっそう充実した作品に見せているのは、この巻の中で初代担当編集の服部哲が放つ「シリアスな笑い」という言葉の力だろう。

ユーモアとシリアスの両立は、作家ならば誰もが理想とするところではある。しかしそれを作品中に立てられた別々の二本の柱と考えるのではなく、ひとつの物事の両面として捉えるその見方には、漫画に限らずエンターテインメント全般に必要不可欠な姿勢を感じることができる。

「笑わせるためにやっていることが面白い」という段階ではなく、「真面目にやっていることが、端から見ると笑える」という状態。もちろんそういう状態は少なからずあって、それを純文学作家の後藤明生は、「『笑う←→笑われる』の関係」と表現した。人のことを笑う者も、実はどこかで別の誰かから笑われている。エンドレスな笑いの連鎖。

だがもちろん難しいのは、作家の場合この状態を、結局は読者を「笑わせるために」作り出さなければならないという点だろう。つまり、結果的には「真面目にやっていることが、端から見ると笑える」ように見える状況を、実作業としては「笑わせるためにやっていることが面白い」という手順で作り出さなければならないということだ。それを生まれ持ったズレ(=天然)で出来てしまう作家もいるのだろうが、多くはそうではなく、本作の主人公たちもそのタイプではないと自覚している。

ならばどうやってその「シリアスな笑い」を生み出してゆくのかという問題になっていくのだが、当然ここには答えも法則もない。そんなものは、ここにも、ここではないどこかにもない。主人公はただそれを、体験を通じて遠回りに会得していくのみなのだが、そこにはなぜか結構な手ごたえがある。これまでの彼らに足りなかったのは、まさにその自ら掴みとる姿勢だったのではないか、と感じさせるほどに。

彼らが「シリアスな笑い」と格闘している姿を見て改めて思うのは、漫画に限らず最近のエンターテインメントが、あらゆる感情を細かに分類しすぎてしまっているということだ。たとえばある漫画を言い表す際に、「バトル+ファンタジー+萌え」のように、分類化したものを安易に足し算して表現したり、また作者もその数式を前提に作っているようなものが多いように感じられる。

しかしシリアスと笑いがまったくもって不可分なように、あらゆる感情や要素は混在し、あるいはひとつの物事の裏表でさえあるかもしれない。様々な要素の混じり合ったそのままの状態と、それを各要素に一度分解したうえで再度組み上げたものでは、当然ではあるがまったく違うものができあがる。分解した時点で掬いきれなかったノイズのようなものが、実は接着剤の役割を果たしていたのかもしれなくて、一度分解したものはもう二度と、完全には混じり合わない。その足し算を過信しすぎた結果、感情の合間をコンスタントに取り逃がしたような、ある種人工的なタッチのドラマばかりが増えているような気がしてならないのだが。

というような部分と、この作品がこの先向き合うことになるのかどうかはわからないが、ここへ来て再びクライマックスを迎えていることは、間違いがないだろう。その内容は、現代エンターテインメントに対する批評精神に満ちている。

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