泣きながら一気に書きました

妄言コラムと気儘批評と悪戯短篇小説の巣窟

『尼僧とキューピッドの弓』/多和田葉子

何か特殊な設定を持つ作品を書くときに、作家は取材を必要とすることがある。だが取材はしすぎるとその調べた現実から飛躍しきれなくなり、逆にイマジネーションを限定するケースも少なくない。ドイツの修道院に住む尼僧たちの人間模様を描く本作を執筆するに際して、作者は実際、修道院に一ヶ月間滞在したとのことだが、その現実が作者にとってあまりに魅力的でありすぎたためか、どうもそこばかり書き込みすぎてしまっている印象がある。

本作は前半約170Pを占める第一部と、後半約60Pの第二部に分かれるが、多和田葉子らしい文体の精度・密度を感じさせるのは、エピローグ的に配置された第二部の方である。それは単純に、第二部の文章には端々にまで作者の主観が入り込んでいるからで、逆に作品の大部分をなす第一部はドライに過ぎる。

第一部は、言うなれば『世界遺産』的情景描写+『世界ウルルン滞在記』的異国間会話を掛けあわせた、正統派ドキュメンタリー番組仕上げ。つまり取材力がものを言う作りになっており、もちろんフィクションとして加工されてはいるのだろうが、かなり現実感の強い描写と会話が続く。たしかにそれはそれで見慣れぬ世界を覗き見た気分で、ある種の(まさにドキュメンタリー番組を観ているような)魅力はあるのだが、それはフィクションにとってはまだ加工前の「素材」段階であるように思える。

今回、作者はまさにその「素材取ってだし」感をこそ表現したかったのかもしれないが、素材を生かすために文体から灰汁と旨みを抜き、プレーンな方向へとシフトさせてしまったのは、あまりに料理人(フィクション作家)の腕前が勿体ない。だが素材が良ければ良いほど、素材の味を生かす方法を考えるのが優秀な料理人でもあるわけで、そういう意味では修道院という素材が、やはり多和田にとって魅力的すぎたのだと思う。

だが何と言っても、ねじくれた情念と官能が渦巻く第二部は魅力的だ。問題は、この第二部のために壮大な第一部という前フリが必要だったかどうかという点である。もしそう考えるならば、第二部には何かしら驚きの展開が欲しいところだが、本作にそこまでのミステリー的強度はない。第一部は確かに、雰囲気作りや展開への事前情報という意味では機能しているのだが、それを第二部の中へと巧みに練り込む腕前を、多和田葉子は間違いなく持っているはずである。そのような形で全体を100P以内にまとめるか、あるいは第二部の文体ですべてを書き尽くしてあったなら、これは傑作になっていただろう。

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