泣きながら一気に書きました

妄言コラムと気儘批評と悪戯短篇小説の巣窟

『生きてるものか』/五反田団

◆演劇は形式が9割、なんて言わせないよ絶対
五反田団『生きてるものか』に取り残されて―

「違うんだって。このお菓子は外側の皮の部分が新食感ってのが売り。中身とか味とかそういう問題じゃなくて」
「いや、皮も別に普通…ちょっと干からびてる…かな?」
「この味覚オンチ!」

こんな気分の芝居だった。つまらなかったのは間違いないのに、「つまらないと思うお前の感覚がつまらない」と言われているような。いや実際には誰にも言われてないのだが、おそらくそう言ってくる人は少なくないと思うので過剰防衛してみる。おそらくこの作品を何の苦もなく受け入れることができる確率は、最近の演劇を見慣れている人ほど高いだろう。しかしこの『生きてるものか』という作品が表現しているのは、演劇というジャンルがいま抱えている問題そのものだ。

価値観がある一定の集団の中で「閉じすぎている」ということ。なぜそう感じたかといえば、本公演が同じ作者の小説に比べ、同一人物が書いているとは思えないほどに言葉の精度低くできているからだ。台詞がどれもこれも圧倒的にゆるく、フックがない。もちろん、「演劇と小説の言葉は違う」とか、「それこそがリアリティだ」という向きもあるだろう。だけどそれは、そこで使われている言葉が面白くないことへの説明にはなっていない。どんなに詭弁臭くはあっても僕は、「リアリティがあるから面白いのではなく、面白いものにリアリティを感じるのだ」という保坂和志の意見に賛成する。

前田司郎の小説の中には、以前からある種の面白さを、たしかに感じていた。つまりは作者の持っているポテンシャルの問題ではなく、それがある(演劇という)価値観の中で閉じてしまっていることが問題なのだ。作者の前田司郎にしてみれば、「つまりは演劇でしかできないことをやった」ということなのかもしれない。それはたしかにそうだろう。だがここまで精度の低いことを小説でやったら、最後まで読むのはひどく難しい。劇場という拘束力のある場所でなければ、これほど退屈な会話の連続が許されるはずもない。「そのジャンルでしかできないこと」が、つまらないことだってもちろんあるのだ。いや、おそらくはそういうことの方が多いのではないか。たとえば「演劇でしか伝わらない動き」を演劇の中でやったからといって、それが面白くなければやる意味は微塵もない。

形式と中身の問題を考えたとき、どちらを取るかという問題は必ず出てくる。もちろん理想は両方だが、そう簡単にはいかない。そして“チェルフィッチュ以降”の演劇界の流れとして、いかに新たなスタイルを提示してゆくのかという問題が、まるで主題のような顔をして演劇界に横たわっているのは間違いない。だがスタイルとは、本当にそれ単体で重要なものなのだろうか? 結果的につまらなくても、スタイルが新しければそれで良いのか?

ここからはいわゆるネタバレになるのかもしれないが、この作品はそこを避けたら何も語れないようにできているうえ、そのネタが作品全体に対して特に効果的に働いているわけでもないので、触れる。

本作には、「時間が逆回しに再現される」という大きな仕掛けがある。しかしもちろん完全なる逆回しとなると、ビデオのリバース再生状態のごとく、すべてが逆さ言葉になり意味がまったく伝わらないため、会話はワンブロックごとに、辛うじて意味の通じる範囲で逆順に並べられる。一区切りの会話を一枚のカードとして、それを前後逆に並べてゆく感じだろうか。


その結果として、当然のごとく死者は次々と生き返り、人間関係は死別から出逢いへと遡られる。単純にその時間の逆行がある種の思い出的感傷を呼び起こすのは事実だが、しかしこの強引な構成はそれ以上の機能を果たしてはくれない。それはつまり、各人の会話やエピソードに、その設定的枠組みを補強する強度がないからだ。観客の意識を後に引っ張ってゆくような強い伏線も、逆順だからこそ効いてくる印象的な台詞もない。そこで起こっているのは、ただ「人生を逆順にしたらこうなるよね」というだけの事実であって、「遡ったからこそ見えてくる真実」というような大仰な炙り出しは特にない。つまりは設定がまったく生かされておらず、この設定には一切の必然性がないように感じられる。本作におけるその設定の「使えてなさ」は、かの迷作映画『シックス・センス』にも通じるものがある。「お前霊じゃなくてもいいよ別に」的な。あの作品は、ブルース・ウイリスが霊でも人間でもどちらでもストーリーに大差ないのに、最後に実は彼が霊であることが明かされる、というどうでもいい種明かしがなされる代物だった。

実のところそれもまったく効果がないというわけではなくて、もちろん観客がそこから受け取るなにがしかの感情はある。なんとなく人間よりは霊のほうが寂しくて苦労が多いように思うし、時間が逆行すれば因果関係が逆転するから、結果よりも原因の重さのほうが強調される。だがその一方で、人間よりも霊のほうが楽にできてしまって興醒めする部分もまたあるし(たとえば尾行)、何の面白味もない原因が逆順により強調されてもっともらしく見えるだけ、ということもある。そういった突飛な設定がトータルでプラスになる可能性は、けっして高くはない。

そしてさらに問題なのは、前田司郎がそれらすべての可能性を把握したうえで、「わざと設定を有効に使ってやらない」という選択肢を取ったようにも考えられることである。ここからは、「逆に」「いや逆の逆に」「逆の逆の、そのまた逆に」というように、完全に無限サイクルのドツボに嵌ってしまいそうで危険な領域へと突入するのだが、たとえば彼が小説「恋愛の解体と北区の滅亡」で実践していたのは、そうやって「クライマックス増幅用の設定をあえて導入しつつ、ロクに使わない」というアンチクライマックスの手法であり、そこには彼の表現の本質があるように思う。宇宙人が襲来しているにもかかわらず淡々と日常を描くというあの「大設定完全無視」のスタンスは明らかに意識的なものであって、そこには岡田利規「三月の5日間」と同様の構造が見て取れる。

つまりは前田司郎にとって、設定とは派手でさえあればなんでも良かったんだと思う。それこそ宇宙人襲来でも戦争でも天変地異でもタイムスリップでも。結局は無視の対象となるわけだから、スケール感が出せればそれでいい。その手法はもちろん否定しないし、むしろ不条理や虚無を表現する手段としてとても有効でさえあると思う。だがそうなるともちろん勝負どころは(どうでもいい)設定以外の部分、つまり会話なり出来事といった「中身」の部分になってくるわけで、結局のところそこがつまらないのが本作の致命的な欠点なのである。本来なら思いきり無視すべき対象であるところの設定に対する甘えが、個別の台詞やエピソードの精度の低さに繋がってしまっている。「これだけ強い設定であれば、エピソードや会話が弱くても何とかしてくれるだろう」というような甘えが。いかにも形式主義が陥りがちな落とし穴に、ずっぽり嵌っている。

前田司郎の小説作品を読む限り、彼は形式主義の人ではない。明らかに、既存のスタイル内で面白いことをやるタイプの作家であって、それは単に向き不向きの問題なので非難されるべきではない。堂々と中身で勝負すればいい。実際、松尾スズキはその範疇で堂々と勝負して勝っている。

しかしチェルフィッチュ以降の新しい演劇の流れが、前田司郎のように形式的冒険に不向きな作家をも、その舞台に引きずり込んでしまっているのだろう。たしかにチェルフィッチュは冒険に成功したが、その先の冒険を、前田司郎が引き受ける必要はまったくないと思う。小説における彼の表現には魅力を感じているだけに、今回は演劇という枠組みが邪魔に見えた。

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