泣きながら一気に書きました

妄言コラムと気儘批評と悪戯短篇小説の巣窟

「ヌード・マン」(『愛と癒しと殺人に欠けた小説集』所収)/伊井直行

裸で街を歩きまわる男になどまったく共感などできないのに、面白いうえに感動さえできてしまうというのは、一体どういうことなのだろうか。そんなことがありえるのだろうか。

おそらくは作者でさえ、この小説の主人公である細川には、基本的に共感できていないだろう。しかし伊井直行は、だれよりも細川のことを理解している。共感はないが理解はある。見ず知らずの読者に、まったく共感できないし知りたくもないどうでもいい他人の人生を、なぜか理解させてしまう筆力。そういう一見無力な力が、この作者には間違いなくある。そしてそういう無駄な力の入れ具合が笑いを生む。たとえばこういう場面。裸で徘徊するという細川の行為「ヌード・ウォーク」のルールを説明する部分だ。

人がいても、単独である限り避けないのが原則だ。といって、こちらから近づいて裸であることを誇示したりはしない。たまたま服を着ていない人がいるだけ、と見られたい。

この絶対に「ない」はずなのに、「ある」と思わされてしまう感覚はなんなのだろう。笑いの種類としては「あるあるネタ」が一般的だが、これは完全に「ないない」である。

しかし「ないない」の中にも、リアリティは確実に、むしろ「あるある」よりも強く存在している。これまで考えたことのないことなのに、「もし自分がそれについて考える日がいつか来るとしたら、きっとそう考えてしまう」ような気がするのだ。《たまたま服を着ていない人がいるだけ、と見られたい》という部分が圧倒的にリアルで、裸になるにもいろいろ派閥があるのだろうが、「見せたい」よりも「見られたい」派のほうが、なぜだか「本物」であるように思えてしまう。この「自らすすんで裸になる」という能動的な行為の出発点に、「見られたい」という受動的な感情が存在しているというバランスが、とてつもなくリアルなのである。そのため、「ないない」な状況が描かれていながらも、読者は「あるある」とつい頷いてしまいそうになる。そしてそれは、「ある」ものを「あるある」と再確認して納得する笑いにくらべて、「ない」ものを発見するというサプライズ感を伴うため、笑いにカウンター的な強度がある。

阿部和重芥川賞受賞作「グランド・フィナーレ」もそうであったように、本作も、変態的嗜好について書いていながら、作者はそれを擁護するわけでも、非難するわけでもない。つまり作者は、被害者加害者のどちらにも肩入れしていない客観的立場を取っており、それはどんなに文中に一人称が紛れ込み、父娘の関係といった感傷的な要素が入ってきてもいっこうに変わらない。その感情を排除する姿勢は徹底して貫かれており、「グランド・フィナーレ」にしろ本作にしろ、主人公あるいは被害者のどちらかに感情移入して読むことを断固として拒んでいるように見える。いずれの物語も、後半の展開がある種の感動を誘う構造になってはいるので、読んでいてうっかり泣いてしまうことも充分に可能なのだが(実際、「グランド〜」はそういう泣き方向の「読み」のおかげで芥川賞をもらえたのだと思う)、隅々まで読めば泣けないように出来ていることこそが、本作の素晴らしさでありリアリティであるように思う。本作が収められている短篇集は『愛と癒しと殺人に欠けた小説集』と名づけられており、そのプレーンな姿勢にはいささかのブレもない。

たとえば物語の中に「敵←→味方」の構造と揺るぎない正義感を導入すれば、この設定を一種の犯罪小説として成立させることも可能だろう。おそらくはそのほうが圧倒的にわかりやすくなるし、多くの共感を得ることができたかもしれない。しかしそういった社会通念的な土台がない場所から書くというのが、本作をすぐれた純文学として成立させている。文学とは本来、そういうものなのだと思う。

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