泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

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『SANCTUARY』/PRAYING MANTIS 『サンクチュアリ』/プレイング・マンティス

忘却の彼方から舞い降りた「哀愁の権化」6年ぶりの新作は、予想外の充実作となった。

6th『NOWHERE TO HIDE』がその前の名作5th『FOREVER IN TIME』の焼き直しであったあたりから見えていた行き詰まりの予感は、前作にあたる7th『THE JOURNEY GOES ON』における劇的展開の減退により、決定的なものになったと思われた。それはアーティストにとって不可欠な「粘り強い試行錯誤」がもはや不可能になった証左であるようにも見え、それは歳のせいなのかそれともモチベーション低下のせいなのか、訪れるべくして訪れたバンドの息切れを感じさせた。

だが本作による復活は、まさに不死鳥のごとく前後の文脈を無視する痛快なものである。失われた劇的楽曲がなんのためらいもなくほぼ完全復活し、その活動時期によって微妙に方向を変えてきた哀愁の美旋律は、またしても若干の方向転換を試みながらも、新たな「泣き」を見事に提示することに成功している。約30年にわたる活動歴を誇るアーティストが、この段階で本質的要素であるところの旋律に新鮮味を漲らせているというのは、もはや驚異的であると言っていい。

この変化と復活の原因としては、大きく分けて二つの要素が考えられる。一つは新Voの加入であり、もう一つはデニス・ストラットンの不在である。

本作に収められた楽曲を、過去の名曲群に比べて「地味だ」と感じる向きも多いだろう。それはおそらく、彼らのトレードマークともなっていた「イントロのギターフレーズ=つかみが弱い」という事実から受ける印象に引っ張られている部分が大きいように思う(イントロ以外のギター・メロディは、むしろいつも以上に炸裂しているのだが)。しかしこと歌メロに関して言えば、ここには過去最高レベルの哀愁が封じ込められている。それは明らかに新Voマイク・フリーランドの功績であり、彼の歌いまわしがバンド全体に新たな「泣き」の側面を付け加えている。

歴代のベスト・ヴォーカリストと言われているコリン・ピール(『A CRY FOR THE NEW WORLD』時のVo)に比べると、伸びやかさや透明度で劣るが、サウンドとの相性と歌メロのセンスという意味では、マイクのほうが上かもしれない。このバンドにはまったく合わなかったけれど、マイケル・シェンカーとやっているときのゲイリー・バーデンのような、上手い下手を越えた音楽的相性の良さを感じることができる。声質と節回しはドン・ドッケンを彷彿とさせ、彼がもっとも哀愁を放っていたジョン・ノーラムとのソロ・プロジェクト作「UP FROM THE ASHES」のときの旋律美に隣接している。特にしっとりと歌い上げる②の節回しは、サビの高音における力み方も含めて非常に近い。

そして本作に充実をもたらした(はからずももたらしてしまった)もう一つの大きな要素は、デニス・ストラットンがいないという事実である。彼独特のアメリカンなポップ・センスが、旧作において彼らの劇的楽曲の「コンパクト化」、および湿度高い美旋律に対しての「除湿機能」を果たしていたのは事実であり、その不在が本作を、ほぼ迷いなく哀愁美旋律方向へと統一する結果につながっている(ポップな⑩は若干怪しいが)。

本作の難点を挙げるならば、それは間違いなく後半の失速感であろう。日本盤ボーナスの⑨がなぜこんな中間的な位置に配されているのかも不明だが、その⑨以降の3曲が明らかに弱い。ドラマティックに盛り上がりを見せる名曲⑥⑦の連打と、その勢いを引き継ぐ⑧への流れが本作の山場を形成しているが、その後に続く3曲がボーナス・トラック水準の凡曲で占められているのは、かなりマイナスな聴後感を与えてしまう。曲順も含め⑧までの展開は素晴らしいだけに、もうひと踏ん張りしてほしかったという思いが残る。

しかし本当にムラのあるバンドである。それが彼らのブレイクを阻止してきたとも言えるし、だからこそ応援したくなるというファン心理もある。願わくばこのVoを武器に、次作はしっぽの先まで餡の詰まった真の名作となることを期待する。

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