泣きながら一気に書きました

妄言コラムと気儘批評と悪戯短篇小説の巣窟

「監督」と呼んでいいのは山本晋也と村西とおるだけだ

WBCを観ていてしみじみ思うのは、日本人にとっての「監督」というのは、文字通り「監督」なのだなあということ。

たとえば海外のサッカーを観ていると、監督のことは「coach」と表記される。

最初は混乱を覚えたが、役割的にはこちらのほうがスポーツの監督業務に近いと思う。「監督」というとなんだか「試験監督」みたいで、指示を出すというよりは、見守っているという感が強い。「何かあったらいけないから、一応いる」という人。通常は何も起こらないので、基本的にはいるだけでいい。なるべく難しい顔をしているだけでいい。そこに求められるのは、もっともらしい「威厳」や「包容力」であって、「知恵」や「指導力」は必要ない。だがチームを一方向へと動かしてゆくには、知恵と指導力は絶対に必要だ。

昔はそうでなかったのかもしれない。選手個々の力でやっていた時代が、野球にもサッカーにもあった。だから長嶋茂雄のようなスーパースターが生まれたとも言える。

だが今は、いずれのスポーツにおいても戦略や戦術が研究しつくされ、組織の力が問われることが非常に多い。だが残念ながら日本の野球は、文字通りの「サムライジャパン」で、1対1の個人勝負を前提とする古風なものに留まっている。もちろんそれが悪いわけではなく、むしろ個人的には好きな野球ですらあるのだが、それでは現代スポーツのチーム戦は難しいのも事実。

あえて大仰な比喩を入れれば、元寇の際、蒙古軍の集団戦術や最新兵器に対し、日本の武士はわざわざ名乗りをあげて一騎討ちをしようとしたため、隙だらけでバッタバッタと倒されていったという「変身中のヒーローを実は誰も待ってくれない」的エピソードは有名だが、完全に選手頼みの今日の試合などを観ていてなんだかそんな気分になった。

スポーツがあまりに組織的になりすぎると、個々の魅力が失われてつまらなくなる危険もある。組織を強固にするものは、説得力のある戦術か、トップのカリスマ性か。あるいは何らかのモチベーションで繋がるというのも侮りがたくて、今回はないと言われているが、「勝てば徴兵免除」とか、あとやっぱり強い民族意識とか。精神論とはいえ、そういうものが実は重要な局面では物を言う場合も多く、「一か八か無茶をして頭から突っ込むか、怪我を回避するために衝突を避けてアウトになるか」というようなギリギリの判断を要求される場面は一試合の中で意外と多く、常に前者を選ぶチームと常に後者を選択するチームでは必ず差が出てくる。

元寇は神風で勝ったことになっていて、前回のWBCもなんだかそんなところはあったが、神風は二度吹くのか一度きりなのか。

しかし相変わらず長嶋っぽい口調でアバウトに当たり前のことしか言わない原監督のインタビューを聴いていると、この人に何らかのアイデアがあるとは到底思えないし、そもそも「選手頼み」を最初から公言しているから、それでいいと思っているのだろう。日本球界もそれでいいと思って彼に頼んだのだろうから、今さら文句はつけられない。

それにしても、日本の投手が与えるフォアボールが多いのを観ると、もちろん精神的なプレッシャーとか慎重になりすぎとかもあるのだろうが、単純にボールとマウンドのクオリティの問題でもあると思う。

一方でこれだけ打てないのは、やっぱり個々人の問題と言うほかないのだろうか。全選手に、正直なところ何割くらいの調子なのか訊いてみたいところ。まだバットの軌道やピッチングフォームが不安定な選手が多いような気がするが、それは準備不足のためなのか否か。

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