泣きながら一気に書きました

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『WILD FRONTIER』/GARY MOORE 『ワイルド・フロンティア』/ゲイリー・ムーア

Gary Moore - Wild Frontier

ミュージシャンにとって、ルーツとはどのような意味を持つのだろう?

生まれた環境にしろ音楽的影響にしろ、それが個人のアイデンティティのかなり多くの部分を占めるのは間違いない。つまりその人の個性を最大限生かすには、ルーツに忠実にものをつくるのがベストであるような気がするのだが、それは同時に非常に辛い作業であるのかもしれない。そして人は、最も辛い時期にこそ、自己の内面と向き合うことを選ぶ。最も辛い時期にわざわざ辛い作業を行うなど信じがたいが、そうやって自己の足場を再確認することでしか取り戻せないものがあるのだ。ゲイリー・ムーアにとって、盟友フィル・ライノットを失った直後に制作した今作は、そういったセラピー的意義を持つものだったのかもしれない。

アルバム全編が、彼のルーツであるアイルランド的な悠久と哀愁に満ちている。打ち込みのドラムや⑥の妙にポップなアレンジなど怪しい部分もあるが、本質であるメロディはどうしようもなく哀しみに溢れている。もちろんフィルとの共作曲“Out In The Fields”や次作における“Blood Of Emeralds”など、ルーツに向き合った楽曲は本作以外にも単発で存在するが、アルバム単位でとなるとこの作品が唯一であると言える。

ゲイリーのファンは彼の「泣き」を愛している。だがその「泣き」の種類は、彼が現在愛好しているブルーズ由来のものではなく、この作品に見られるアイルランド民謡的な「泣き」なのだという人が多いのではないだろうか。なぜもう一度あれをやってくれないのか、なぜわざわざ何の縁もゆかりもないアメリカ生まれのブルーズなど奏でているのかと。
 
だがそれは、ルーツ回帰という作業の性質を考慮に入れてみれば、あるいは仕方のないことなのかも知れない。妙に日常的な比喩で申し訳ないが、田舎から上京してきた青年が何の理由もなく帰郷することがないように、ミュージシャンがルーツと向き合うにはそれ相応のきっかけが必要なのだと思う。故郷との対面とは、それほどまでに億劫で気が乗らない作業なのである。そういった回帰的作業はどうしても、「進化」よりは「後退」を、「勝利」よりは「敗北」をイメージさせてしまうからだ。端から見れば、「いつでも帰れる故郷」を持っていることは幸福に見えるが、本人にとってみればそれは「できれば帰りたくない場所」であったりする。

だが僕はそれでもゲイリーに、「Back to the wild frontier!」と言いたい。本作はそれほどまでに素晴らしい内容であるし、彼にしかなし得ない偉業だと思う。しかしこれは、「『あのときの』彼にしかなし得ない偉業」だったのかもしれないという考えもまた同時にある。きっとそうなのだろう。だとするならば、この作品を生み出す原動力としてフィルの存在(と喪失)が機能していたと認めるほかなく、結果、僕らはこの名作を聴き続けることでしかゲイリーの最高到達点を味わうことはできないのかと思い至り、聴くたびに遠い目になってしまうのである。

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