読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

泣きながら一気に書きました

妄言コラムと気儘批評と悪戯短篇小説の巣窟

老婆vs 河童vs虫〜読まずに芥川賞所感〜

↓《ニュース記事》【芥川賞講評】宮本輝氏「作家として成長した」
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090115/acd0901152154007-n1.htm

近ごろどうも文学の良し悪しを決める選考基準が、「的確に今という時代を切り取っているか否か」に偏っているような気がしてならない。今にはじまったことではないのかもしれないが。直木賞は興味がないので芥川賞の話である。

その傾向をうまくつかんで「契約社員」(宮本輝は「派遣」と書いているが、単に彼がこの両者の区別を出来ていないだけの模様)をテーマに書いた作品が受賞するのは、作品の出来以前の問題として、どうも経過が安っぽくてがっかりする。いかにも編集者と相談のうえ狙いに行った感が強い。

時代を切り取るとはつまり、すでにある現実を後追いするという意味であり、当然その時点ですでに時代遅れであるということになる。とりあえず今もっとも頻繁にニュースで耳にする言葉を小説に取り入れた時点で、その小説は現実の縮図になる。そこには広がりも新しさもない。流行のギャグをワンテンポ遅れて連発する上司の寒さがある。それでは小説は現実に勝てない。勝つ気がないのなら話は別だが。

そもそも芥川は、たとえば「羅生門」で現実を切り取ったか? あの時代に、老婆が死人の髪の毛をむしる事件が多発していたか?
あるいは、「河童」。当時、河童が大量に目撃されていたとでも言うのか? 『元気が出るテレビ』の川崎徹のしわざか? 
カフカが「変身」を書いたとき、チェコで『ムシキング』ブームでも起きていたか?

リアリティ欲しさに、目の前の現実にすり寄るのは得策ではない。
そもそも現実とリアリティはまったく違うものだ。現実よりもリアリティのほうが、明らかに大きい。リアリティは普遍的で、現実は一過性のものだ。

文学の世界ではなぜ昔の作品ばかりが愛されるのか、そのことにしっかりと目を向けるべきだと思う。時代と添い寝する文学に、未来を生き抜いてゆく力はない。

広告を非表示にする
Copyright © 2008 泣きながら一気に書きました All Rights Reserved.