泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

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短篇小説「雑談法」

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 七年前にいわゆる「雑談法」が施行されて以来、気軽に「雑談でもしましょう」などと言えない世の中になった。難儀なことである。

 「雑談法」により、「雑談」という文字どおり雑然とした概念は、改めて明確に定義されることとなった。はたして何が「雑」で何が「雑」でないのか? その曖昧すぎるボーダーラインは、それまであまりにもないがしろにされてきたと言うべきだろう。

 そもそも「雑談」とは、「とりとめのない話」や「無駄話」を指す言葉であるが、そんなことはわかっている。それでは何が「とりとめがなく」て何が「とりとめがある」のか、何が「無駄」で何が「無駄でない」のかと、単に問題を横にズラしただけで、何ひとつ定義したことにはならないのである。

 ここでいう「雑談」というものの正体をより正確に理解するためには、まずはその「雑談」に急遽スポットライトを当てた法律であるところの「雑談法」の成立過程をしっかり把握しておく必要があるだろう。なぜそのような、一見どうでもいいような、ピンポイントな法律が制定されたのか、ということを。

 議論の起こりはこうだ。雑談法が制定される五年ほど前から、すでに過酷すぎる労働環境問題、つまりブラック企業的な労働体制に関する対策の必要性が各方面より叫ばれていた。元社員や現役社員からの告発による企業イメージの低下を怖れた企業側は、やがてサービス残業の廃止や有給休暇の取得を促すなど、表面的な改善策を次々と提示することに。

 しかしそれは現実的な解決策とはならず、仕事を家に持ち帰ったり、プライベートな飲み会とは名ばかりの実質「会議」が公然と行われるといった由々しき事態が頻発することとなった。

 つまり、一見したところ会社にいる時間が短くなったため、仕事時間も減っているように見えるが、実質的には増えているどころか、よりプライベートが仕事に侵食されるという悲劇を招く結果となってしまっていたのである。

 なぜそのようなことになってしまうのだろう? そう考えた厚生労働省の官僚たちが思い至ったひとつの結論は、「人間はついつい、プライベートでも仕事の話をしてしまいがち」であるという普遍的事実であった。昼休みに同僚とランチを食べていても、仕事終わりに上司に飲みに連れていってもらっても、最初は単なる雑談をしていたはずが、いつのまにか仕事の話題になっている、というのはよくある展開どころか、むしろ自然な展開ですらあると言うべきだろう。

 だが厳密に言えば、仕事の話をした時点でそれはもう仕事であって、もっと言えば仕事のことが少しでも頭に思い浮かんだら、それはもう仕事をしているのとなんら変わりないのである。たとえば日曜日の夕方に『サザエさん』を観ながら、「あ~、もう日曜も終わりか。明日からまた仕事だな……」と思ったら、そう考えている最中はもう仕事をしているのと同義であると言っていい。

 とはいえ、むろん人間の思考回路まで法律で縛ることはできない。ならばせめて表に現れた部分だけでも、ということで、官僚が知恵を絞って考え出したのがこの「雑談法」である。これは簡単に言えば、「プライベートでの会話は雑談に限る」という法律であり、つまりは「プライベートで仕事及び仕事に役立つ類の話を一切してはならない」ということである。同僚や上司との飲み会がついつい会議になってしまうのは、しっかりと正しく雑談をしていないからである、というわけだ。

 法を破った際の罰則は基本的に罰金刑であるが、そもそも仕事というのは金を稼ぐためにするものであるから、そこでわざわざ金銭を失うということに対しては誰もが大きな抵抗を感じているようで、その抑止力は今のところけっして小さくはない。カフェ、居酒屋、ゴルフ場をはじめ、会話が頻繁に発生する場所にはかなりの「雑談Gメン」が配備されているという。

 取引先とのゴルフで、池ポチャしたボールを拾ってやる交換条件として突如商談を持ち出す、などという古典的手法はもってのほかだが、そこまで明確でなくとも、違法と判定されたケースはいくらもある。

 たとえばあなたが女性デザイナーであった場合。休日に彼氏とお洒落なカフェで雑談を楽しむのは悪くない。「なんだか雰囲気のいいお店だわ」「料理もなかなか悪くないし」と、ここまでは雑談ということで問題はない。

 しかしそこからの話の展開で、「このお店、壁紙のデザインがシックでいい感じだわ」「そうだな。ほら、お前がこないだデザインしたカーテンにちょっと似てないか?」となったらもうアウトである。この場合境界線の判定が難しいところで、「デザイン」というワードを持ち出した時点で「デザイナー」という自らの職業にまつわる話題を彼女が意図的に振っている、という見方もできるが、ここはやはり、具体的に彼女が職業的に手掛けた制作物を持ち出したという点で、彼氏のほうが有罪と判定される可能性が高い。

 そして彼氏は店内に常駐している「雑談Gメン」によりバックヤードに連れ込まれ、駆けつけた警官とともに防犯カメラで発言箇所を確認したうえで、「雑談違反切符」を切られることになる。

 そうなればこの彼氏は、彼女が普段会社からもらっている基本給に照らしあわせ、この話題が続いた時間分の残業代を自ら振り込まねばならない。ここで仕事の話題に触れているのは会社の上司でも同僚でもなく、社外の人間であるこの彼氏なのであるから、残業代とはいえ、会社がそれを負担するいわれはない。

 だがこれはまだ、彼女の職業が日常生活から少し距離を感じさせるだけ良いほうかもしれない。たとえば彼女が看護師であった場合、彼氏の体調を心配する声を掛けるだけで、即座に雑談法違反と認定されてしまうのだから。

 この「雑談法」が施行されて以降、世の中の「会話」に対する評価が一変したのは言うまでもない。それまでは、仕事のためになる話、役に立つ話をする人間が尊敬される傾向にあった。しかしこれ以降は、「いかに仕事とは無関係の、役に立たない話を続けられるか」という、本物の「雑談力」が重宝されるようになったのである。

 そしてそんな「雑談力」を身につけるのが、いかに難しいことであるかというのは、皆さんもすでにおわかりであろう。家庭で仕事の話をしなくなったら、妻との会話が一切なくなりまもなく離婚。彼氏が急に無口になったことで、つきあってからこれまでずっと彼の仕事上の自慢話だけを聞かされていたということに気づいて別れを決意。あれほど賑やかだったオフィス街の食堂が、満席の平日ランチタイムにお通夜のような無言に包まれるなど、当局には次々と悲劇的な報告が寄せられている。

 その一方で、「雑談力」に特化した教室やトレーニングも大流行しており、近ごろでは、その日の天気の話だけで半日持たせたという猛者も出現しているという。

短篇小説「憤と怒」

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 憤介が怒っているのは、いつものバス停に時間通りバスが来ないからであった。すでに時刻表から十分も遅れている。会社に遅刻すれば怒られるのは憤介なのだから、彼が怒るのも無理はない。しかしまにあったらまにあったで、要領の悪い憤介はどうせ別件で上司に怒られるので本当のところは大差ない。怒られる理由が変わるだけの話である。

 バスの運転手が怒っているのは、複数の乗客による「とまりますボタン」早押し合戦が先ほどから激化しているからだ。今朝のバスにはそれを押したがる子供が何人もいて、それをいっこうに止めようともせずそれどころか応援さえしてみせさえする親が何人もいた。親たちは別の親に怒り、子供たちは自分の一撃により期待どおりの悲鳴をあげないボタンに怒りをぶつけていた。

「とまりますボタン」が有効なのは、最初に押した人間だけということになっている。この不毛な略奪戦を生んでいるのは、そんな早い者勝ちな一番槍システムのせいであると、運転手は常日頃から憤りを感じていた。

 だが二番目に押したのもそれ以降に押したのもいちいち全部鳴っていたら、運転手がそれはそれで怒ったであろうことは想像に難くない。そんな運転手も、昔はブザーを押したくて押したくて震える子供だったのだが。

 運転手は、子供がボタンを押しそうなタイミングで急ブレーキをかけて彼らの体勢を前後左右へ崩したり、ブザー音を自らの車内アナウンスで掻き消したりすることに集中するあまり、運転がおろそかになってバスに大きな遅れが生じた。急ブレーキによる重力の変動が、何台ものスマホを床へと転がした。そして転がったスマホは、必ず誰かの足によって踏みにじられた。

 バスの横をすり抜けようとしていたバイク便のライダーは、自らの進路をいちいち妨害してくるバスの不安定な走行曲線に怒っていた。

 バスの不安定な進路を避けるためにふくらんだバイク便ライダーのハンドル操作が、今度はその後ろを走っていたタクシー運転手を怒らせた。急ブレーキを踏んだタクシー運転手はすべてをバイク便ライダーのせいにしようと大袈裟にクラクションを鳴らしたが、その爆音が後部座席で徹夜明けのうたた寝を決め込んでいる乗客の怒彦を叩き起こし怒らせた。

 クラクションで覚醒した怒彦は、昂ぶった気分を落ち着けるために目の前の助手席の背に貼りついている画期的増毛法のチラシを手にとって眺めた。ちょうど最近、薄くなってきたような気がしないでもない。近ごろは、飲みにいった先で毛髪の話ばかりしているような気がする。

 これもいい機会だと思い、同じ悩みを持つ同僚にもこのチラシを渡してやろう、みんなで増やせば怖くない! そう思い立って怒彦がチラシホルダーからもう三枚ほどチラシを抜き取ると、その中に一枚だけ脱毛業者のチラシが混じっており彼はまた猛烈な怒りを覚えた。左袖をまくり時計を見るふりをして、腕毛を一本ひっこ抜くとその怒りは不思議と収まった。

 だが収まった怒りもささいなことで復活することを諦めてはいない。いったん冷静になったついでに改めてチラシを吟味してみれば、増毛チラシの電話番号下四桁は「2834(ふやすよ)」、脱毛チラシの下四桁は「5742(けなしに)」となっていることに彼は気づいてしまった。増毛屋が数字の3を英語読み「スリー」の「す」に当てはめたのもたいがいだが、脱毛屋の5を「け」と読ませる強引さには怒りを通り越して失笑が漏れた。

 彼は普段から、何事につけ増やすよりも減らすほうが残酷な行為であると感じていたため、両者の決定的な相違がこのチラシにより立証されたような気がしてまた怒った。通り越したはずの怒りが踵を返して再び襲いかかってくるのは良くあることだ。

 そんな怒彦がチラシをブリーフケースに突っ込んでタクシーを降り(このブリーフケースに彼は、律儀にもちょうどこの日購入したばかりの白ブリーフを入れていたが、それはまた別の話。ちなみにこのブリーフは買ったばかりであるにもかかわらず黄ばんでいたが、それもまた別の話だ)、会社の入っている高層ビルへと入っていった。 

 怒彦がエレベーターに乗って自らの部長席へとたどり着くと、すでに始業時間を二十分過ぎていた。席について周囲を見まわすと、直前に同じく遅刻してきたらしい部下の憤介が慌ただしく始業準備をしている姿が目に入った。彼はいつもならば一分の遅刻でさえ部下を叱り飛ばすところだが、この日は自分も遅刻をしていたため怒ることができなかった。

 怒彦はそっと憤介に近づくと、自分の同じく薄毛の憤介に、先ほど手に入れたチラシの中から、嫌がらせのつもりで脱毛のほうを手渡してやった。しかし憤介は薄毛であると同時にムダ毛にも悩んでいたため彼はそれを大いに喜び、この日から「憤」と「怒」はお昼休みに仲良くランチへ行くようになったという。

  
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短篇小説「三割神」

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 野球で打率三割といえば好打者といえるが、三割だけ願いを叶えてくれる神様はどう評価すべきだろう? 神だってなんでもかんでも完璧に叶えられるわけではない。神に完全無欠な仕事ぶりを常時要求したりすれば、今どきパワハラだなんだと訴えられかねない。神にも人権ならぬ神権はあり、向こうには神権派弁護士もついている。

 さて、世の有識者らは願いごとを三割だけ叶えてくれるこのような神を「三割神」と呼ぶ。しかもこの神、三割は三割でも、正確にいえばそれは打率つまり「成功率」を表しているのではない。そこは神なのだから、成功率に関しては言うまでもなく十割である。三割しかないのは、むしろ達成率のほうである。いや達成率というよりは、進捗率と言うべきかもしれない。これに関しては、ちょっと説明が要る。

 たとえば人間が三割神に、「100万円欲しい」と願い出るとする。ここで10回中3回100万円が手に入るとしたら、それは成功率三割である。あるいは確実に30万円が手に入るとしたら、それは達成率三割と言うべきか。

 しかし三割神の三割は、そのいずれでもない。この神が叶え得る三割とは、「100万円を入手するプロセスにおける三割の段階まで進むことができる」という意味での三割である。

 もし100万円を手に入れる手段として、それを願い出た人間が銀行強盗を選んだ場合、この神はその計画準備を三割方まで進めてくれるということだ。残りの七割に関しては、もはや神の知るところではない。

 三割進捗の現実的なラインとしては、使えそうな仲間集めと目標となる銀行選び、そして車の手配くらいまでだろうか。そこに拳銃の入手や当日の作戦決行まで含めると、明らかに三割を越えてしまうため、以降はなんとか自力でやり遂げるしかない。いわゆるひとつの自己責任である。

 たとえばあなたが「素敵な女性とつきあって結婚したい」と願い出たならば、三割神はやはりそのスタート地点からゴールへと至るプロセスの三割方までお手伝いしてくれる。おそらくまずは「出逢い」、そして「偶然の再会」、さらに「たまたま一番好きな映画が一緒」くらいの演出は、向こうで勝手にやってくれると思われる。

 ここで、「ならばむしろ初期段階ではなく、その後の最も難易度の高い告白周辺のプロセスを三割方やってくれないか」という向きもあろうが、三割神の役割は残念ながらスタート地点からの三割に限られる。途中からのプロセスだと割合の計算が面倒だ、という実務的理由による。

 ちなみに三割神の口癖は「あとは流れで」であり、目標へのプロセスが三割方進捗すると、三割神はこの言葉を残してあとかたもなく雲散霧消する。偶然だが相撲の八百長でよく使われるのとまったく同じ台詞である。

 統計によると、三割神に願いごとをした人間の目標達成率は三割を優に下回り、一割をも切ると言われている。残された七割を達成できる人間ならば、最初から三割神などに頼らずとも自力で目標達成できるはず、というのが最近の常識的見解である。逆に言えば、三割程度下駄を履かせてもらったところで、その先には山ではなく崖しかないというケースのなんと多いことか。

 関係者の話によれば、長引く不景気のあおりを受けて業績悪化の止まらぬ現在の神界において、この三割神こそがリストラ候補のポールポジションに君臨しているらしい。その圧倒的事実は、もはや十割方揺るぎないという。


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