泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

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二度手間侍の牛乳茶

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「二度手間侍」とは、二度手間をものともしない侍のことである。それが昨日、カフェに現れた。まずは脳内に、そして眼前に。

といってもわけがわからないだろうがそれでいい。「二度手間侍」とはその昔、『アンタッチャブルのシカゴマンゴ』というラジオ番組内において、アンタッチャブルの柴田が生み出した言葉である。ある日その番組中に、柴田が「ギター侍」こと波田陽区のフレーズを投入する流れが生じた。なぜと言われても生じたんだからしょうがない。

エンタの神様』でかつて大ブレイクしたギター侍のネタでお馴染みのフレーズといえば、「○○ですから、残念!」という決め台詞である。だがそこで咄嗟にそのフレーズを引っぱり出してきた柴田は、「残念ですから、残念!」と、なぜか「残念」というワードを無駄に二度繰り返したのだった。もはや遠い記憶であり定かではないが、たしか単純なミステイクだったように思う。

しかし凄いのは、柴田がこれを間違いとして単純に処理しなかったことで、彼はこのミスを自ら面白がり、ギター侍ならぬ「二度手間侍」として番組内に定着させてしまった。「残念だから残念」とは、おそろしく当たり前の話である。「残念=残念」。「2=2」という数式くらい意味のない、完全な二度手間だ。しかしだからこそ言いたくなる。以上が「二度手間侍」という言葉についての解説である。

余計な解説に文字数を割いてしまった。文章に登場させる特殊な用語の解説に、また別の文章が必要になる。これも二度手間といえば二度手間なのかもしれない。

さて、ここからが本題である。二度手間侍は、実のところ我々の日常に遍在している。僕は昨日、そんな二度手間侍と壮絶な戦いを繰り広げた。これから書くことは、いわば僕と二度手間侍との戦いの記録、つまり「戦記」である。これも二度手間だ。「つまり」はいつだって二度手間を呼ぶ。

昨日の夕方、僕はちょっと茶をしばきながら本を読もうと思いタリーズコーヒーに入った。そのくせ僕はコーヒーが飲めないので、コーヒー以外のものを頼まなくてはならない義務を負う。そうなるとひどく選択肢の幅は狭まり、だいたい紅茶系かココアを頼むことになる。タリーズでは以前チャイを飲んだ記憶があったので、それを頼むつもりでレジへ向かった。

だがレジでメニューを目の前にすると、「チャイ」の文字がなかなか見当たらない。そこで僕は店員さんに、チャイというメニューの有無を確認しようと思い立ったが、同時にそれはどうも「チャイ」というだけの単純な商品名ではなかったような記憶が浮かび上がってきた。たしか「チャイティーラテ」とかなんとかいう、複合的な名前だったような気が。

店舗数が多いこともあって、僕は普段からタリーズよりスタバに行くことのほうが多いのだが、あちらではよく「ほうじ茶ティーラテ」という品を注文する。その感じからすると、店は違えどこの界隈におけるチャイの名称は、なんとなく「チャイティーラテ」で合っているような気がしてこないでもない。

そう思って「チャイティーラテってありますか?」と口にしようとした瞬間、僕の脳内に大いなる疑問がよぎった。

「『チャイ』ってそもそも、『ミルクティー』って意味じゃなかったっけ?」

……いや確実にそうだろう。だとすると、そのあとにひっついてくる「ティーラテ」の正体はなんだ? もしかしてこれも「ミルクティー」なんじゃあじゃないのか?

その段になって、ようやく僕はピンと来たのであった。これは間違いなく、二度手間侍の仕業であるということに。「残念ですから、残念!」僕はそれと同じ大惨事を、あやうく口にしてしまうところだったのである。

危ないところだった。すんでのところで脳内二度手間侍の攻撃を躱した僕は、いったん呼吸を整えてから店員さんに言った。

「あの~、チャイ的なものってありますか?」

「的なもの」という言葉のモザイクをかけることで、僕は表現を曖昧に処理することに成功した。すると店員さんはメニューを指さして答えた。

「あ、はい。こちらの『チャイミルクティー』ですね」

なんということでしょう! この人はいま、「ミルクティーミルクティー」という意味のことを言っている。これぞ紛うかたなき、二度手間侍の攻撃に違いない。しかも今度は想像上ではなく、目の前で実際に発せられた言葉であった。いまここに、店員に姿を変えた二度手間侍が出現した。

しかもそれは、想像上の二度手間侍よりもさらにストレートな一撃であった。「チャイティーラテ」ならば、まだ「ティーラテ」部分の意味が直接的には認識しにくいぶん、二度手間感が若干緩和されるような気がしないでもない。

だがそれが「チャイミルクティー」となると、もはや言い訳は無用だ。「ミルクティー」と言われて「ミルクティー」を思い浮かべない者はいないからだ。「チャイ=ミルクティー」であって、つまりそれは「ミルクティーミルクティー」ということになる。何を言っているのかわからなくなってきた。

考えてみれば、ライバルのスタバが「ほうじ茶ティーラテ」と謳っている以上、タリーズも同じく「~ティーラテ」という命名パターンを使う確率は低い。ぬかった。しかし改めて考えてみると、スタバの「ほうじ茶ティーラテ」にしたところで、「茶」と「ティー」の間には確実に二度手間侍がいる。頭痛が痛い。いや頭痛で頭が痛い。

「大事なことだから二度言います」

学校の先生はよくそんなことを言ったけれど、それでもちゃんと二度聴き逃すのが僕たち生徒だった。二度手間侍は、いつ、どこにでも現れる。世を忍ぶ仮の姿の二度手間侍が淹れてくれた「チャイミルクティー」は、少しだけ濃い味がした。


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短篇小説「愚問の多い料理店」

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 料理をいただくというのは、ただ料理を食べるということではないらしい。わたしは先日訪れたある店で、その事実をこれでもかと思い知らされた。「家に帰るまでが遠足」と学校の先生が言うのなら、「食べる前が食事である」と今のわたしは言いたい。もし言えるとすれば、だが。

 その日のわたしは、オフィス街のランチタイムに蔓延る定番嗜好を打破すべく、根拠なき開拓者精神に燃えていた。サラリーマンやOLにとって、一時間のランチタイムとは休憩時間である以上に戦場である。なぜならば、その地域に働く誰もがほぼ同時刻に飛び出してくるからで、そのうえ明確な制限時間が設けられているからである。

 それゆえ必然的に、ランチで行く店は「いつもの店」になることが多い。未体験の店となると、行列にしろ料理が出てくるまでのタイミングにしろ、「時間が読めない」というのが大きなネックになる。だがそんな安全パイばかり選び取る生き方は、もう出世の望めない仕事だけでたくさんだ。わたしはこの日、そんな強い決意を胸に、その未知なる料理店へと飛び込んだのである。

 その料理店は少し変わった場所にあった。わたしの職場のあるオフィスビルの隣に変電所があり、その向こうに比較的大きな公園がある。公園の奥にはこぢんまりとした森林があり、その隅にはひっそりと軽食や玩具を扱う売店があった。

 二週間ほど前、わたしは会社近くの交差点で交通事故に遭い、公園の向こうの病院へ通っていた。幸い入院するような怪我ではなく、週二日程度の通院を繰り返すうち、三日前にその売店がいつの間にか料理店へと変貌していることに気づいたのだった。それ以来、わたしはどういうわけかその店が気になって気になって仕方がなかった。

 そして三日後、わたしはいよいよ森の奥の料理店へと勇み足で向かった。蔦の絡む店の前に「料理店」とだけ書かれた看板が立っていたのだから、そこが料理店であるのは疑いようもなかった。木製の扉を開けると、若さと冴えなさを兼ね備えたウエイトレスがすぐにやってきた。店内に客はわたし以外ひとりもいないようだ。食べ終わるのに時間がかかりそうになくてひと安心である。ウエイトレスは立ったままのわたしに、妙に良く通る声で質問を投げかけた。

「お客様は、ここへ何かを食べに来たのですか?」

 料理店でここまで根本的な質問をされたのは初めてだった。もちろんわたしは「はい」と答えた。すると立て続けに、ウエイトレスからの第二問が来た。

「お客様はひょっとして、おなかをすかせていらっしゃるのですか?」

 意図的にすかしているつもりはないが、基本的におなかがすいている人間が料理店に来るのである。だがもしかすると、何らかの事情でこの時間帯は軽食やドリンクしか出せないとか、そういうことなのかもしれない。あるいは大盛りが無料であるパンが食べ放題であるとか、そういったサービスを勧められるのかもしれない。いずれにしろわたしは素直に「はい」と答えた。その「はい」の二文字を言い終わらないうちに、早くも第三問が来た。

「お客様は、これまでに何かを食べたご経験はございますか?」

 生まれたての乳幼児ならまだしも、何も食べたことのない成人が生きているはずがないだろう。わたしは腑に落ちぬまま、「もちろん」と答えた。そしてこの問題から当然のように派生する第四問が来る。

「それは、どのようなものでしたか?」

 いろいろありすぎて答えようがない。もちろんわたしはそう思ったが、あるいは食物アレルギーや好き嫌いの心配をしてくれているのかもしれない、と思い直す程度にわたしは大人だった。相手の意図を巧みに汲み取り、先回りして「ああ、アレルギーも好き嫌いもないんで、なんでも大丈夫ですよ」と丁寧に返した。すると当然のように打ち返しの第五問が来た。

「いえ、食べられないものを訊いているのではなく、食べたものを訊いているのです」

 大人対応は求められていないようだった。

「ご飯とかラーメンとかパスタとか。あと肉とか魚とか野菜とかですかね」
 私はややイラつきながら、思いつく食べ物を羅列した。驚くべきことに、わたしは以上五つの質問に対し、すべて入口を一歩入ったところへ突っ立ったまま答えていたのである。

「あの、とりあえず座席に案内してもらってもいいですか?」

 私はすっかり座りたくなりすぎて、「席」ではなくわざわざ「座席」と言っていた。「座」にアクセントを置いて。

「それでは、続きはご着席いただいてからといたしましょう」

 意外にも、ウエイトレスは素直にこちらの要求を受け入れた。ただし、「続き」という言葉が気になったのは言うまでもない。空腹を抱えたまま迎えたそれからの時間帯は、もはや思い出したくもない地獄のような問答が続いた。わたしの答えはすべて「はい」であるため、ウエイトレスの質問だけを以下に抜粋する。 

 第六問「お客様は、飲みものと食べものの違いがわかりますか?」
 第七問「お客様は食事をする際に、何かしらの道具をお使いになりますか?」
 第八問「お客様は、咀嚼という作業をしたことがありますか?」
 第九問「お客様に、味覚という感覚はございますか?」
 第十問「お客様に、消化器官はございますか?」
 第十一問「お客様は、ナイフとフォークで人を刺さない自信がおありですか?」

 空腹と質問責めのおかげで、最後の質問には「いいえ」と答えたくもなった。しかしここまで来たらどんな料理が来るのか、食べるまでは意地でも帰れないと思い、わたしはこの質問にもやはり「はい」と回答した。

 そしてこの十一問目が終わるとウエイトレスはようやく厨房へと引き下がり、五分ほど待つと、見たこともない創作料理のフルコースが運ばれてきた。もちろん、ナイフとフォークもきっちり添えられていた。

 味は文句のつけようもなく、さらには完璧にわたし好みの味つけであった。あるいはあのまったく無関係に思えた十一の質問への回答が、この味に反映されているとでもいうのだろうか。

 わたしはすべての料理を平らげ、驚くほど安い会計を済ませると、最後にウエイトレスに訊いた。

「看板には『料理店』としか書いてなかったんですけど、このお店ってなんていう名前なんですか?」

 ウエイトレスはわたしの質問を、鼻先で笑いつつ答えた。
 
「お客様、それは愚問としか言いようがございません。当店の名称は、『愚問の多い料理店』でございます」

 わたしがすっかり腑に落ちたといった様子で微笑みを浮かべると、ウエイトレスは自信に満ちたトーンで、いかにも最後の質問といった感じで続く第十二問目を発したのであった。

「お客様、当店の料理はいかがでしたか?」

 思いがけず真っ当な質問に、わたしは少々面食らってしまった。しかしわたしはここぞとばかり、気の利いた答えを返す好機を掴んだ。

「こんな美味い料理は食べたことがない。それこそ愚問中の愚問だよ」

 わたしは料理の味だけでなく、この自らの回答にすこぶる満足していた。そして見事に会話を締めくくることに成功した手応えを感じながら、わたしは店内全体に向けて「ごちそうさま」と声を放ち、ドアを開けて立ち去ろうとした。その時わたしの背中に、思いがけずウエイトレスから、今度こそ最後の第十三問目が投げかけられたのだった。

「お客様は、生きていらっしゃるのですか?」


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耳毛に憧れたって駄目―悪戯短篇小説集 (虚実空転文庫)

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短篇小説「弔問の多い料理店」

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 行列のできる料理店など今どき珍しくもないが、その列をなす人々がもれなく同じ色の服を身に纏っているとなれば話は別だ。しかもそれが、もれなく沈鬱な面をひっさげた喪服と来れば。

 私がその料理店に初めて足を運んだのは、たまたまその日の私が、知人の葬儀帰りの喪服姿であったからだ。そうでもなければ、わざわざ漆黒の行列にお気軽な普段着で潜り込む勇気など、地方公務員の息子である私が持ちあわせているはずもない。

 だが逆に、普段から気になっていなければ、わざわざ葬式の帰り道に立ち寄ろうなどとは思わなかったのも事実である。よりはっきり言うならば、不謹慎なことに、私はこの日を待ち望んでさえいたのだ。

 それはもちろん、某かの因縁や憎しみから、知人の死を待ち望んでいたというのではない。まさにこれに関しては、無差別殺人犯が都合よく口にするあの無責任な常套句「誰でも良かった」を当てはめるほかないのである。私が切に求めていたのは、知人の死どころか誰の死でもなく、言ってしまえば「死」ですらなく、ごくごく純粋に「喪服を着る機会」ただそれだけであったのだから。

 そう言えば貴方がたはおそらく、「別に葬式でなくったって、なんでもない日に喪服を着ていけばいいじゃないか」などと野放図におっしゃることだろう。だがそんな乱暴を言えるのは、あの行列をなす面々が揃って見せる、哀しみを湛えた、この世の果てとしか言いようのない暗澹たる表情を、貴方がたが目の当たりにしていないからである。

 あの特殊な行列に自然体を装って溶け込むのは、並の演技力では難しいと言わざるを得ない。少なくとも、地方公務員の息子である私には不可能であるように思えた。

 そして私がその物騒な料理店にぜひ入ってみたいと常々感じていたのも、まさにその行列が持つ表情ゆえであった。ことほど左様に絶望を面に表した人々の奥底にある瀕死の食欲を呼び起こし、さらには「並んでまで食べたい」と思わせる料理とは、いかほどのものであるのか。

 店には看板が掲げられていないため、ネットで評判を調べようにも検索のしようがなかった。そこで供されるのはもしかすると、人間の哀しみや絶望など一瞬にして蹴散らすほどの、究極の料理なのではないか。

 私はそのような期待を胸に、行列の最後尾についたのだった。行列に馴染みの良い暗鬱な表情をリアルに浮かべるため、その日荼毘に付されたさほど仲の良くなかった知人との、ありもしない思い出の日々に遠く想いを馳せながら。

 店の入口から伸びる三十名ほどの行列は、思いのほかスムーズに消化されていった。時おり、並んでいる順番とは関係なく、真ん中あたりから呼び出されて店内に導かれてゆく人が何人かあったのが気になった。あるいは有名人や権力者が優遇されているのであろうか。

 二十分ほどが経過し、漆黒の行列にもすっかり馴染んできたところで、やはり喪服を着た店員に声を掛けられた。私は改めて沈鬱な表情を作り直してから、店内へと重々しく足を踏み入れた。

 まず最初に違和感を感じたのは、レンガ造りの広々とした洋館風のフロアが、思いのほか閑散としていたことだ。テーブルにしろカウンターにしろ、明らかに空席が目立っている。行列のできる店で、空席が多いなどという逆説的な状況があり得るであろうか。

 私は少々疑問を感じつつも、おとなしく勧められたテーブル席についた。そしてセットメニューに従い、十勝産コーンスープ、有機野菜のシーザーサラダ、比内地鶏のソテー、そして食後のコーヒーを注文した。自家製のパンは自動的についてくるようだ。

 五分ほど待つと、まずはコーンスープとバスケットに入った自家製フランスパンが登場した。私がスープに口をつけると、そのタイミングで喪服姿の男がまたひとり、入口から店内へと導かれるのが目に入った。そしてふた口目を口にすると、その喪服姿の男はなぜか私の目の前に立っていた。その手には小さな壺のような陶器を持ち、涙目で何かをこちらに訴えかけている。

 私はこの段に及んで、目の前にいる喪服姿の男が客でないことをなんとなく理解した。手に持った壺の蓋を開ける男の手には数珠が掛かっており、それを見て初めて、私はこれがただの壺ではなく、お焼香をするための香炉であることを悟った。

 もしかするとここは、メイドカフェ的趣向で「葬儀プレイ」を楽しむ「葬儀カフェ」なのかもしれない。咄嗟にそう解釈した私は、郷に入っては郷に従え、とりあえず「お焼香プレイ」に応じる決意をしたが、目の前に突き出されたのは香炉のみであり、そこへ投入する抹香が用意されていないことに気づいた。

 通常ならばその二つは左右に仲良く並んでいるはずであり、それを右から左へキャッチ&リリースする動きこそがお焼香の醍醐味である。私は見えたはずの正解を、即座に見失ってしまったのであった。

 だが地方公務員の息子である私には、そんな危機的状況においても冷静に次善の策を練る判断力が備わっていた。私は籠に入っているフランスパンの一片を取りあげると、その一部をちぎっては投げ、ちぎっては投げ、といった心持ちで、指先で細かくちぎったのちに、いったんそれを額にバウンドさせてから香炉に投入するという、斬新なお焼香プレイを繰り広げた。

 香炉はたちまちパンくずでいっぱいになった。私が「ご愁傷様です」と声をかけると、男はパンくずの山を封じるように香炉の蓋を無理に閉じ、深々としたお辞儀とともにひと粒の涙をこぼして立ち去った。その涙に嘘があるようには、どうしても見えなかった。

 では男はいったい誰の死を悼み、私はいったい誰に向けてお焼香しているのか。いまだ不明な点は多い。

 ほどなくして二品目のシーザーサラダが運ばれてきた。フォークを手に取り、私がやはりひと口目を口に入れたタイミングで、入口からまた別の喪服姿の男が入ってくるのが見えた。そしてまたしても、ふた口目で男は目の前に立っていた。私は先ほどと同様の手順で、お焼香を無難にこなしてみせた。今回はシーザーサラダのクルトンが即戦力となってくれたため、パンをちぎる手間が省けた。この男もやはり終始泣いていたのだった。

 気を取りなおしてサラダを食べ終えると、しばし間を置いてメインのチキンソテーが運ばれてきた。今度入ってきたのは喪服姿の女であったが、私はやはり前二回と同様の手順で焼香した。今回はすでにパンの類が手元になかったため、ソテーに添えられていたパセリの頭を細かくちぎって香炉へ投入した。料理の味はすべて絶品であった。

 涙を浮かべて立ち去ろうとする女の背中に、ついに私は問うてみた。「いったい私たちは、どなたを悼んでいるのですか?」と。

 すると女は、ただひとことだけ言い残してその場を後にした。

 「うちの子は、あなたのために死んだのですよ」 

 いったい何を言っているのか。無論さっぱり身に憶えなどないが、さすがに放置できる言葉ではなかった。私は慌てて店員を呼びつけると、この謎のお焼香システムについて問うた。店員の男はこともなげに、マニュアル通りといった機械的な口調で答えた。

「当然ですが、食材が動植物いずれであれ、当店では調理に際して必ず殺生を行います。焼香を求めてくる人たちは、それら食材の育ての親であり喪主たちとなっております」

 むろん納得とはほど遠いが、その言葉に矛盾は見当たらなかった。すると行列に並んでいる際に、列の中途から店内に招き入れられていた人たちは、優遇された著名人でも権力者でもなく、自ら育成した食材に別れを告げに来た生産者であるということか。どうやら、自らが手がけた食材を使用したメニューに客からの注文が入ると彼らは呼び出され、客の口に放り込まれるその瞬間を今生の別れとして、弔いの儀を執り行うという寸法らしい。行列ができているのに店内が思いのほか空いていたのは、その行列の大半が客ではなく、生産者=喪主のほうであるからということだろう。

 味はすこぶる良いが、なんとも面倒な店に入ってしまったものだ。私は面倒ついでに常々気になっていたことを、この無機質な店員に尋ねてみることにした。そう、この店には看板が見当たらぬため、私はこの店の名前を知らなかったのである。

「当店は、弔問の多い料理店です。それが、この店の名前です」


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耳毛に憧れたって駄目―悪戯短篇小説集 (虚実空転文庫)

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