泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

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書評『場所』/マリオ・レブレーロ

カフカを好むがゆえにカフカ・フォロワーと見るや手に取ることが多いが、このマリオ・レブレーロもそのひとり。とはいえ南米ウルグアイの作家であり、カフカとの地理的な距離感がどのように作用しているか、という興味もあって。

これは音楽の世界でもよくあることなのだが、フォロワーというのはオリジナルを濾過することで自らの精度を上げようとする傾向がある。

たとえばビートルズのファンが、あれだけ幅広い音楽性を誇るビートルズの全楽曲を、まんべんなく同レベルに好きということはあり得ないわけで、そこには必ず好きな曲とそうでもない曲がある。

そしてのちに自分がいざ音楽をやるとなった場合、自然とビートルズの好きな方向性の影響を煎じ詰めたような音楽(たとえばポールのメロディセンス)をやりたいと願い、それ以外の、ビートルズの中にあるあまり気に入っていない要素(たとえばジョージのインド趣味)はノイズとして排除する、というような選択肢を取ることが多い。

これはある種の「進化論」といってもいいかもしれない。「進化論」とは、よく使う能力が進化するというだけではなくて、あまり使わない能力は退化するということを同時に意味する。まあ普通に考えて、自分の気に入らない方向性の音楽をはなっからわざわざやる必要はない。

この『場所』という小説を読んで真っ先に感じるのは、たしかにカフカの影響である。しかしそれが本質的にカフカっぽいかというと、実はそうでもない。

『審判』や『城』にも通じるような、『場所』というシンプルかつアバウトな題名。見知らぬ場所で目覚め、そこからの脱出を計るもぐるぐると脱出不可能な迷宮的設定。そういった枠組みの部分には明らかにカフカの影響が如実に感じられるのだが、しかしいざ読んでみるとそこから受ける感触は大いに異なる。

僕はカフカの本質的魅力を「滑稽さ」だと捉えている。それは小説として見れば「可愛げ」であるとも言えるし「蛇足」であるとすら言える部分である。言ってみれば「プロット的には必要のないディテール」であって、たとえば『城』における助手がまったく同じような人格の二人組である必然性があるかといえば、そんな必要はないようにも思える。

しかし助手を二人組にしたことによって、結果的には間抜けな出来事が次から次へと起こり、また出来事はこじれにこじれてゆく。そうやって生み出されるカフカの「滑稽さ」が、あらかじめ想定されたものなのか、単に目の前の設定を転がしていった結果なのかはわからないが、そこに多大なる魅力を感じているというカフカ読者は少なくないはずだ。

翻って本作『場所』について言うならば、作者のレブレーロには、どうやらそういったカフカ流の「滑稽さ」というものを、ノイズとして除去した上で書こうという明確な意志のようなものが感じられる。

先にも書いたように、フォロワーというのはオリジナルからノイズを除去することでソリッドさを手に入れようとするものだが、レブレーロにとって必要なのは、不条理な世界観を演出するためのカフカ的骨組みであって、その骨と骨の合間から滲み出してくるコンドロイチン的な「滑稽さ」ではなかったようだ。

だが先人がもたらしたものから、何かを引いて何かを足すというのは跡を継ぐ者の宿命である。たしかに、ここには期待していたような「滑稽さ」はないが、短いながらも三部構成となっている本作の第二部以降の展開には、カフカ的な純文学というよりは、エンタメ小説的な魅力を代わりに見出すことができる。

第二部以降の展開には、思いがけずアメリカの人気ドラマ『ウォーキング・デッド』を想起させるものがあった。第一部の閉鎖的な雰囲気からは予想できないこのメジャー感のある開放的な展開には、当初の期待とはまったく別の魅力があり、しかしそこにはある種の不自然さもある。

そう思いつつ最後まで読み終えたのち、訳者あとがきを読んでいると、その不自然さについてまことに腑に落ちる作者の以下のような言葉が引用されており、すっかり合点がいった。

《最初の三分の一(第一部)は今でも大好きです。第二部は人工的、知的になって、無理して第三部への橋渡しをした格好です。そして実際のところ、第三部は別の小説だったかもしれません。最も評価された作品ですし、『エル・ペンドゥロ』に発表されて以来、よく読まれているのですが、私にとって『場所』は少々バツの悪い作品です。とはいえ、第一部はいい出来ですし、それなりの理由があって無理に続きを書いたのですから、仕方がないとは思います(後略)》

書き手としては、まさしくそういうことなのだろう。しかし面白さという意味では、僕は作者が満足していない、さほどカフカ的でない第二部以降にこそ、この作者の本領が発揮されているように感じる。物語終盤の着地こそあからさまな無理が目立つものの、いかにもカフカ的な地点から出発しながらまったく別の「場所」へと連れ出してくれるこの展開力にこそ、やはり単なるフォロワーには終わらない、レブレーロという作家ならではの特質を見たような気がするのであった。

場所 (フィクションのエル・ドラード)

場所 (フィクションのエル・ドラード)


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書評『東京モンタナ急行』/リチャード・ブローティガン

東京モンタナ急行

東京モンタナ急行

この世にブローティガンほど「当たり外れ」の激しい作家はいない。にもかかわらず、「外れ」に当たってもなぜか損した気分にならないのがブローティガンの凄さである。

短編小説は一般に、当たり外れの激しいものとされる。どうしてもワンアイデア勝負になりがちであるため、その一撃が外れてしまえば何も心に残らない、というのは当然のリスクであるかもしれない。

この『東京モンタナ急行』は、いつものブローティガン作品同様、小説とエッセイの中間をいくような、とりとめもない短編小説集である。ただその日に見かけた出来事を描写しただけの日記的文章もあれば、ひねりの効いた設定のフィクションもある。

つまり、それぞれの短編に込められた熱量や作り込み度合いがバラバラなのだが、それもまたいつものブローティガン作品の特徴であって、読み手が「当たり外れ」を感じる要因になっている。

結果、一編ごとのクオリティは不安定だが、作品ごとのクオリティはいつも安定している、という不思議な状況になっている。ある種、「ひとつの作品内における不安定さ」が常時一定なのである。

個人的に、文章にしろ映画にしろ音楽にしろ、「雰囲気で好きになる」ということがない。きっとブローティガン作品がまとっているこのお洒落な雰囲気に丸ごと酔える人は、この一編ごとの「当たり外れ」はほとんど気にならないだろう。彼の文体には、読者を丸ごと取り込んでしまう包容力が確かにある。

あえて陶酔しないように気をつけながら読んでいる、というわけではない。だが普通に「面白い文章が読みたい」というプレーンな気持ちでブローティガン作品に接するとき、一編ごとの濃淡があまりに大きいというか、明らかに「薄い文章」が所々混じっていることに気づかずにはいられない。

しかしもう一度言うが、普通であれば許しがたく感じてしまうそんな「薄い文章」が、彼の作品集においてはなぜか許せるというか、むしろ「必要悪」であるような、それなしには彼独自の空想力はじける濃いパートも生まれ得ないような気さえするのも事実なのである。

そう考えると薄い「外れ」の文章は濃い「当たり」の文章を生むための助走である、とでも言いたくなるが、そのような一般論に落とし込むのもなんだか違うような気がしている。それに読んでいると、作者自身はむしろ、あまりフックのない「薄い文章」のほうをこそ愛しているようにも感じられるのである。

本というのは読み手の状況やレベルにも左右されるものなので、僕がいま感じている「当たり外れ」が、いつの間にかそっくり逆転したり、急にフラットに感じられたりする日がいつか来るような気もしている。

それはそれで楽しみでもあり、そうやって読み手の価値観を常に不安定な状態に設定してくる作品こそが、繰り返し読む価値のある作品であるということなのかもしれない。

というわけで、いつでも読めるように、どうかこの『東京モンタナ急行』を再版してください。アマゾンマーケットプレイスの現状約2万円という価格はさすがにふっかけすぎだが、良心的な古書店でも7千円くらいする有名な絶版商品。図書館で借りた一冊は、すでにはち切れんばかりの代物で。

短篇小説「河童の一日 其ノ十五」

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夕方、雨が降ってきた。ゲリラ豪雨である。でも傘は差さない。僕は河童だから。

いや本当は差したい。いくら河童とて、ずぶ濡れは嫌だから。でも河童が傘を差していると笑われるから差せないのである。もう一度言うが本当は差したいのだし、甲羅と背中の間に折りたたみ傘だって入ってる。開いたことは一度もない傘。

「おい、全然話が違うじゃないか!」

近ごろ雨の日に外を歩いていると、だいたい日に一回はそうやって言いがかりをつけられる。違うもなにも、話したことのない初対面の人からいきなりライアー扱いされるのである。今日も少し背の高い、カブトムシのような男からイチャモンをつけられた。

「8月なのにまだ梅雨終わってねえだろこれ。なんとかしろよ」

またか、と思いつつ、僕は精いっぱい困った顔を作り、「すいません」と「ごめんなさい」の中間的な発音の言葉をボソッと呟いたのちそそくさとその場を去る。僕はたしかに湿気がないと生きていけない河童だが、もちろん気象予報士でもなんでもない。もちろん「皆さん、梅雨が明けましたよ!」と差し棒を我が物顔で振り回しつつ大々的に発表したことなど一度もない。

なのに体が湿気ているというだけで、雨の予報くらいできるに決まっていると、なぜか人間に思われているようなのである。いや雨予報どころか、河童こそが雨を降らせていると思われている節すらある。だとしたらこいつの上にだけ降らせてやりたい。

できればお天気お姉さんとつきあいたいという気持ちは結構ある。それだけは言っておきたい。しかしそれは僕に気象予知能力があることを意味しない。単に僕が、天気予報を良く見ている健全な男子だというだけである。

しかしここまで言われると、逆に僕ら河童が「雨乞いの儀式」でもやれば、それなりに儲かるんじゃないかという気もしてくる。棒の先にひらひらのついたハタキ的なやつを振り回して、呪詛のように平坦なライムを繰り出せばそれっぽくなるのではないか。棒状のものを振り回すという意味では、気象予報士レインメーカーもさほど変わらないのかもしれない。

そんなことをヘッドソーサーの内側で考えているうちに、夏休みの宿題の絵日記を進めようと考えていたことを思い出した。夏休みといってもどうせたいしたことは何も起こらないので、先のことまでまとめて書いてしまおうという魂胆である。すでに十日先まで書いてあるので、いっそ全部終わらせてしまおうと思っていたのだ。

家に着くとさっそく日記帳を取り出し、続きを書き進める前にふと気になって、今日の出来事を事前に何と書いてあったのか確かめてみた。日記によると今日僕は市民プールに行っていることになっていたから、内容的には全然当たってない。今日はコンビニにアイスを買いにいっただけだ。

しかしその日の天気記入欄に書いてある「くもりのち雨」というのは当たっていて、そこで「もしかして」と思った。念のために直近十日分の天気記入欄をネットの天気予報と照合してみたところ、すべて完全に一致していてぞわっとした。

僕は気象予報士になるために生まれてきたのかもしれない。もしくは雨乞いの儀式で荒稼ぎするために。

そんな野望に胸をふくらませていたら、買い物から返ってきたお母さんに「なんで洗濯物取り入れてないの!」と叱られてシュンとなって。

河童が服を着ると間違いなく濡れるけど、河童だって着る瞬間には乾いた服を着たい。濡れた服を着るのと、着ている服が濡れていくのとでは全然意味が違う。

そんなことを言ってみたところで、傘を差す河童を笑う人たちは、誰もわかってはくれないんだろうな。わかっても好きになってはくれないんだろうな。だからきっと明日も雨。


tmykinoue.hatenablog.com

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耳毛に憧れたって駄目―悪戯短篇小説集 (虚実空転文庫)

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