泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

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短篇小説「河童の一日 其ノ十四」

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河童は梅雨が好きだと思われがちだが実は梅雨が苦手だ。科学的に説明はできないが、河童の好む湿気と梅雨の湿気は何かが決定的に違うのである。それ以前に僕ら河童という存在自体がそもそも科学的に説明できないのだから、河童に科学を求めないでほしい。

今日は朝起きた時点ですでに体が重かったが、案の定授業中に気分が悪くなり午前中はずっと保健室で寝ていた。ベッドは濡れてしまうので、床にレジャーシートを敷いて。

美人と評判の保健の乾先生はそれを床に敷きながら、「なんだかピクニックみたいね」と言った。いざそこに寝てみたら何を敷いても床は床だなと思った。床が固くて眠れそうになかったので、なんとなく乾先生を観察することにした。

実は以前から、保健の先生はいつも保健室で何をしているのかなと気になってはいた。怪我人が入ってきたらもちろん手当てはするけれど、それ以外の時間帯はいったい何をしているのだろう。

僕が床に横たわっている間、乾先生はデスクのパソコンに短文を打ち込んだり、書類的なものをめくったり、何かをプリントアウトしてみたり、窓を開けてひととおり外を眺め回したのちに閉めてみたり、「あー包帯の予備もうないじゃん」と独りごちてみたり、つまり端的に言って何もしていなかった。

僕は保健の先生になりたいと強く思った。

でも僕は美人でないうえに人間ですらない。僕は先生に訊いた。

「先生は、なんで保健の先生になろうと思ったんですか?」

週刊誌のスキャンダラスなページを読み込んでいた乾先生が椅子ごと振り向いて答えた。

「なろうと思ったことないよ。結果的になってた、ってだけ」

小学生の僕にはイマイチわからないが、仕事ってそういうものなんだろうか。そういえば僕も、河童になろうと思ったことは一度もなくて、結果的になってた、ってだけだ。これって、先生にとっての仕事とおんなじだ。でもだとしたら、僕にとっての「河童」は「仕事」ってことなのか? 

「ところでお仕事は何を?」「はい、河童をやっております」

大人になったら、僕はそんな会話をする河童になるんだろうか。でも仕事というからには、それでお金を稼げなければいけない。だけどもしかしたら、河童にしかできないこと、河童ならではの能力を生かしたビジネスを発明できれば、将来的には河童を仕事にできるのかもしれない。

まあ、今のところは何も思いつかないしこの先思いつく気もしないんだけど。このままなんのアイデアも思いつかないまま大人になったら、と考えていたらなんだかようやく眠くなってきて、『きゅうりのキューちゃん』の工場で働いている夢をレジャーシートの上で見た。ぽりぽり。


tmykinoue.hatenablog.com

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短篇小説「勇者・二度見村ミム彦の誤解」

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勇者・二度見村ミム彦はいわゆる「二度見」の天才であった。彼はあらゆるものを二度見る。そして一度見た段階では確実に見間違えるが、再び同じものが視野に入ればその対象を正確に把握することができる。

めでたく二十歳の誕生日を迎えたその日、ミム彦は初めて宮殿に招かれた。この村では、勇者が成人するとその日に王様から重大な任務を言い渡されるのが通例である。

身なりを整えつつ窓の外にちらりと目を遣ると、どうやら雨が降っていた。傘を差していくのは面倒だなぁと思いつつ念のため再び窓を見ると空は晴れており、単に激しめの雨柄Tシャツを着用した男が窓の外を通過しただけであった。やはり二度見ることはミム彦にとって至極重要なことである。とりあえず傘を持っていかなくて良いので少しは気が楽になった。

山の上に向かって5分ほど歩くと、ミム彦は宮殿をいったん視界に捉えた。ほどけた靴紐を結び直して再び目を上げると、そこにある建物は宮殿ではなく小汚い居酒屋に変貌していた。門前にいる衛兵に見えた男たちは、もう一度よく見ると割引クーポンを配るキャッチのお兄さんだった。ミム彦はクーポンを受け取ると居酒屋に入った。これで一杯目のビールは無料だ。成人してはじめて飲めるビールが無料とは幸先が良い。

店内にはもちろんレッドカーペットが敷かれており、奥の玉座にはものものしい王様が鎮座している。いちおう見直してみると、床には紅ショウガが数本落ちており、玉座と思われた奥のカウンター席には黄色い「巨人帽」という名の王冠をかぶったみすぼらしい中年男性が座っていた。男はビールジョッキに投入して泡洗浄したつもりの入れ歯を左手で嵌めながら、右手でこちらを手招きしている。

ミム彦は男の手の動きに誘われるように、隣のスツールに腰掛けた。つもりだったが、改めて見るとそれはスツールではなく業務用サイズの蚊取り線香だった。ズボンの尻がちょっと焦げたが構わず座ったら丸ごと潰れて鎮火した。

ほぼ床に座った状態のミム彦に店員が注文を取りに来たので、先ほど入手したクーポン券を手渡した。店員に見えた男はもう一度見ると明らかに客で、クーポン券はよく見るとどこかの子供が作った手作りの肩たたき券だった。いずれにしろこれではビールは無料にならない。

ミム彦は適当に当たり障りのない注文を済ませると、視野を確保するために立ち上がり、王様であるはずの巨人帽の男に話しかけた。

「二度見村ミム彦、ただいま参上つかまつりました」

「まあ、飲めや。ハタチになったんやろ」

王様は気さくにビールを勧めてきたが、それは間違いなく先ほど彼が自らの入れ歯を投入洗浄していたビールジョッキであった。ミム彦は自分が本物の勇者であるかどうか、試されていると感じた。これを迷わず飲む勇気か、潔く断る勇気か。いずれにしろ、真の勇者にしかなし得ないことであった。

ミム彦はもう一度よく王様の顔を見てみた。どうみても庶民的なおっさんだった。一度見間違えたものを二度見ると劇的にその印象が変化するが、三度以上見てもなんの変化もなかった。ということはこの王様は王様ではなく、だとするとミム彦も勇者ではないのかもしれなかった。

そう考えはじめたミム彦は解答をいったん保留して席を立ち、トイレの鏡の前で自分の顔をジッと見つめた。そこには見たこともないような、一片の勇ましさも感じられぬ弱気なオタク青年の姿があった。この貧弱な男が、勇者であるはずがない。

そしてそれは、ミム彦がこれまで二十年間の人生において二三四五二回目に鏡で見た自分の顔であった。まるで初めて見るようなその顔こそが、彼の真の姿だった。

つまり彼が本当に物事を正確に把握できるのは、対象を二度目に見たときではなく、二三四五二度目に見たときなのであった。劇的な印象の変化は一度目と二度目の間に起こるがいずれの印象も間違いであり、二度目から二三四五一度目までは変化がなく、二三四五二度目に至ってようやく正しい印象へと辿り着くのであった。

しょせんこの世は幻。もしもミム彦がいま、これを「二三四五二度見」だと気づいていれば「二三四五二度見村ミム彦」への改名を真剣に考えるところだが、むろん人生で自分の姿を映し見た回数などカウントしているはずもなかった。それに名前ではなく名字だから、変えるにしても手続きが面倒なことになっただろう。

周囲にとってみれば、ただでさえ長い名字がさらに長大にならなかっただけでも僥倖と言えた。


tmykinoue.hatenablog.com

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似合わせなカット

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近ごろ髪切り場の看板黒板そしてネット上でやたらと目撃するようになった謎のメニューがある。

「似合わせカット ¥6,480」

なんということでしょう。なんだかわからないが、このメニュー名からは「言葉の圧」のようなものが強烈に発散されている。「似合わせる」という使役文体が、その強制力を遺憾なく発揮しているのかもしれない。

しかしその「言葉の圧」がどの方向に向けられているかというと、これがよくわからない。「絶対に似合わせてみせます!」という切り師の自信表明なのか、「とにかくお客様の言う通りにします」という徹底的な媚びなのか。あるいは、「こっちは全力で似合わせようと努力しているのだから、もしそれでも似合わなかったとしたら、お客様の顔面の圧倒的な質の低さが原因です」と責任の所在を明らかにしようとしているのか。

さらに厄介なのは、このメニューを掲げている髪切り場の場合、「似合わせカット」以外の普通のカットというメニューが存在していないのである。つまり「似合わせカット」には「スタンダードカットのハイグレードバージョン」などという質の上下を示す特別な意味などはなく、それはデフォルトつまり「標準カット」を意味していると思われる。

いわばここでも言葉のインフレが起こっているのである。以前僕は輸入CD屋で、「名盤!」「傑作!」「名作!」「超名盤!」「必聴盤!」「神盤!」「奇跡の一枚!」「十年に一度レベルの衝撃!」「聴かずに死ねるか!」といった絶賛系キャッチコピーがほとんどの作品につけられていることにひどく困惑した経験があるのだが、もし髪切り業界でこの「似合わせカット」がデフォルトになってきているとしたら、そこには同様に際限なき言葉のインフレーションが待ち受けているはずなのである。総理、これはいったい何ノミクスなんでしょうか総理。

そもそも髪切り場に赴く客が、自分に似合う髪型にしてもらいたいのは当たり前のことである。たとえ切り師にどんな無茶なリクエストをしようとも、そこには「似合う髪型にしてください」というひとことが間違いなく暗に含まれているはずだ。「言わずもがな」というやつである。

いやもしかすると、「オダジョーみたいにしろっていうあなたのリクエストは絶対に似合わないから、却下して全然別のもっと似合う(無難な)髪型にしてあげます」という切り師サイドの親切心を超えた老婆心こそが「似合わせカット」という言葉の真意なのだろうか?

しかしだとしたら、それは切り師にとっての「似合わせカット」ではあっても、客にとっての「似合わせカット」ではまったくないということになる。オダジョーになりたい客は、オダジョーの髪型が自分に似合うと信じているか、もしくは似合わないと薄々わかってはいても、それでも切り師の腕前でなんとかオダジョー刈りのまま似合わせてくれたりしないものかと考えているはずなのである。もちろん後者は明らかな無茶振りであって、もはや美容整形外科で発注すべき案件であるのだが。

それ以前にオダジョーの髪型はそもそも変化が激しすぎるため、意思疎通の手段としてはリスクが大きすぎる、という別の問題もある。切り終わった段階で鏡を見て、「このオダジョーじゃなくて、3つ前のオダジョーを頼んだのに!」という事故が多発していること請け合いである。

まあそこは憧れる対象と自身の顔面との距離感を見誤った自己責任であるとして、同じ「似合わせカット」という言葉でも、切り師にとってのそれと客にとってのそれとでは、すっかり意味が正反対になり得るということだ。

つまり「客が似合うと信じているが切り師から見れば似合わないカット」というのは、客からすればまさに「似合わせカット」であるのだが、切り師からすればむしろ「似合わせなカット」であるということになる。この場合、「似合わないことがあらかじめわかっている状態で切る」という敗戦処理的なスタンスが切り師に求められることになる。

それでも客の信じる「似合わせ」と自らの信じる「似合わせ」のあいだを取ってなんとか「落としどころ」を探るというのが、プロの切り師に求められる技術とセンスなのかもしれない。だがそうなると切る側も切られる側も、いずれにとっても少なからず妥協が必要となり完全な「似合わせ」ではなくなってしまうから、そのカットはどちらサイドから見ても「似合わせカット」を名乗る資格を失うことになる。

なのでもしどうしても「似合わせカット」という言葉を使いたいならば、「似合わせカット(客目線)」「似合わせカット(切り師目線)」という風に立場によって分類するか、あるいは切り師目線に固定して「似合わせカット」だけでなく「似合わせなカット」という新メニューを拵えるか等、さらなるオプションを考える必要があるのではないか。ないのではないか。ないのだろう。ないに違いない。もうないなんて言わないよ絶対。


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