泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

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短篇小説「天天天職」

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どんな仕事にもその職務内で発揮される「才能」というものがあり、逆にいえば人にはその「才能」を生かす「天職」というものがあるらしい。「才能」というのはけっして、スポーツ選手や芸術家にのみ求められるものではない。映画チケットのもぎりにすら「才能」というものはあるのだ。

ちなみに私はいま、学生を「天職」へと導くべく就活塾を開いている。そこで生徒に教えているのは、何も複雑なことではない。単に自らの「天職を知る」ということである。

だがこれが意外と難しい。就活生はみな「自己分析」をすることによって、そこから自分が「どんな職業に向いているのか」を探り当てようとするが、それだけでは充分ではない。

こう言うと、少しでも意識の高い学生はもれなく、「もちろん業界研究だって会社研究だってやってますよ」と答える。だがそれでも充分であるとは言えない。最も肝心なものが欠けている。

むしろ知るべきであるのは、「自分」よりも「業界」よりも「会社」よりも、「職種」のほうなのである。世の中には、多くの人が聞いたこともない「職種」というのが無数に存在している。そしてその「職種」が求めるものこそが「職能」であり、自分の「職能」が生かされる「職種」こそがその人にとっての「天職」なのである。

つまり「職種」を知らずして、「天職」を知ることはできない。

たとえば私の就活塾の卒業生には、誰もがその名を知る大手食品メーカーで「カップ焼きそばの湯切り担当」をやっている男がいる。

私はうちの塾が毎年行っている三泊四日の就活合宿の際、彼が夜食にカップ焼きそばを作りはじめるシーンを目撃した。もちろん夜食を作りはじめたのは彼だけではなく、他にもカップラーメンやカップうどん、そして同じくカップ焼きそばを作っている学生もいた。だがその中で彼だけが、圧倒的に鮮やかな「湯切り」を披露したのである。

当然、カップラーメンやカップうどんに湯切りなど必要ないため、ライバルは二~三人ほどであったが、それにしても凡人とは比較にならないほど絶対的にシャープかつ繊細な湯切りだったのである。それはもう、誰が見ても「才能」を感じざるを得ないレベルの。

だがその類の些末な「才能」は、一般にすぐさま忘れ去られることになっている。しかしどんな「才能」にも、それを行かす場所は必ずある。それを迷いなく確信しているというのが、あるいは私の就活ナビゲーターとしての「才能」であるのかもしれない。

考えればわかることだ。カップ焼きそばには「湯切り」という作業が必ず必要になる。そしてカップ焼きそばを作っている食品メーカーは、その開発段階において無数にカップ焼きそばを作り、試食するという試行錯誤のプロセスを繰り返しているはずだ。

ということはつまり、その会社にはカップ焼きそばの製作過程において、最も難易度の高い「湯切り」という作業を行うスペシャリストがきっと存在しているはずなのである。もしそのような専門家がいなかったとしても、間違いなく求められているはずなのだ。あるいは公然と求めてはいないにしても、いたらいたで「いてくれて良かった」と感じるに決まっているのである。つまりそこには、潜在的なニーズがある。

そう考えた私は、その「湯切りマスター」の学生に食品メーカーを受けることを強く薦めた。すると彼はカップ焼きそばを製造している大手食品メーカーのエントリーシートの特技欄に、「カップ焼きそばの湯切り」と素直に書いて応募した。実際に話を聞いたところ、彼の「湯切り」への興味と理解は凄まじく、すべてにおいて理論づけがなされていたため、これはいけると確信したのである。

すると面接時にはわざわざカップ焼きそばと熱湯とたらいが用意され、居並ぶ面接官の前で彼は例の鮮やかな「湯切り」を披露。同時に現状における「湯切り」システムの問題点や改善点を数十箇所指摘して面接官らを唸らせることで、見事採用を勝ち取ったのである。

彼が入社して以降、そのメーカーのカップやきそばの湯切り口が格段に進化したというもっぱらの評判である。やがて、シンクにすべてをぶちまける敗残者が皆無となる日も遠くないであろう。

私はいま、ちょうどそこのカップ焼きそばを食べてみているのだが、湯切り以前に肝心の麺もソースもおそろしく不味くて食えたものではない。世の中には、どうやら「重要な才能」と「どうでもいい才能」というのがあるらしい。

短篇小説「もはやがばわないばあちゃん」

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 がばいばあちゃんが思ったほどがばわなくなったのはいつの日からだろうか。

 がばいばあちゃんは、とにかくいつでも誰にでもがばうばあちゃんだった。イケメンにも不細工にも分けへだてなくがばうし、いったんがばうと決めたら老若男女も国籍も問わない。西に倒れている人あれば駆けつけてこれをがばうし、東に食い逃げ犯あれば持っている杖をためらいなく抛ってがばう。

 たとえば若手刑事とがばいばあちゃんがバディを組んだとして、拳銃を持った犯人が目の前に現れ、がばいばあちゃんの脇腹を撃ち抜いたとする。

 瀕死のがばいばあちゃんは自分を助けに駆けつけた若手刑事に対し、「ここはあたしにがばわず逃げな! あたしにがばうな!」と言って真っ先に若手刑事をがばうことだろう。

 しかし彼女による慈悲深いがばいは、時に若者の反感を買うこともあった。以前年若いロボット運転手の頬を強くがばった際、がばわれた少年は以下のような台詞を叫びつつ、がばいばあちゃんを射るように睨めつけたという。

「がばったね! 親父にもがばわれたことないのに!」

 だが優柔不断だった少年は、その日から目に見えて強くなったと言われている。

 そして近年突如として浮上してきたのが、がばいばあちゃんの「がばい有料化」疑惑である。がばいばあちゃんにがばわれた実の孫が、「がばわれたぶんのギャランティーが翌年のお年玉から天引きされている」という衝撃の事実を訴え出たのである。

 実際のところは「孫の両親が、がばいばあちゃんから孫に渡されるお年玉袋を事前にチェックし、その半分を抜き取って勝手に貯金に回していた」ということが後に判明したが、この事件以降、がばいばあちゃんのがばう回数が明らかに減少したというデータが明らかになっている。

 本音を言えばがばいばあちゃんだって、「がばうよりがばわれたい」という乙女心を、いまだ心の奥底に宿しているのかもしれない。

 だとするならば、近ごろのがばいばあちゃんのがばい不足あるいはがばい放棄を、強く責めることなど誰にできるだろうか。むしろがばいばあちゃんにがばわれることを心待ちにするばかりで、すすんで他人をがばうことを怠ってきた自らの過去をこそ恥ずべきではないか。

 今こそ「がばうとは何か」、その意味を改めて考えるべき段階に来ているのかもしれない。

書評『騎士団長殺し』/村上春樹 ~ダイソン的吸引力で読者を物語へと引き込む「ほのめかし文学」~

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本と人との関係というのは人間同士の関係と同じで、趣味嗜好は合わなくても友達や恋人になれるというケースが少なからずある。僕にとって村上春樹の作品とは、常にそういう存在であるのかもしれない。この『騎士団長殺し』という作品をいま読み終えて、改めてそう感じている。単純に言ってしまえば趣味はいまいち合わないが、それは別にして作品として面白い、といった按配で。

多くの場合、並んで歩く友人同士は似たようなファッションに身を包みがちであり、逆に夫婦の離婚原因の1位は「性格の不一致」という摩訶不思議な理由である(そんなもの、一致するはずがない)。しかしまったく趣味や価値観の合わない者同士の間にも、もちろん友情や恋愛関係は成立する。むしろ二人の間に生じる「違和感」が良い意味での「刺激」や「補完関係」といったプラスの働きをもたらすこともあるだろう。

村上春樹を語る場合、人は妙にその作品内に登場する趣味嗜好に対して神経質になる。もちろんそれはいわゆる「ツッコミどころ」としては格好の「お題」であるし、あまり考えずとも条件反射的に「好き嫌い」の判断を下しやすい材料ではある。僕も過去作に関して、その点を話題にあげてきたこともあった。

たとえば作中でかかる高尚なクラシック音楽、毎度色まで丁寧に指定される登場人物たちの服装、どこか日本人離れした朝食のメニュー、なぜかどこの家にも設置されているテラスとデッキチェア、記号として用いられるフェティシズム……等々。それら作者の趣味嗜好が投影されているであろう描写を理由に、村上春樹作品を毛嫌いする向きは少なくないし、逆にそこをこそ信奉するファンも数多いるはずだ。

私は台所に戻り、コーヒーメーカーでコーヒーをつくって飲んだ。固くなりかけたスコーンをトースターで温めて食べた。それからテラスに出て朝の空気を吸い、手すりにもたれて、谷の向かい側の免色の家を眺めた。

正直、僕もそういった文化的なディテールに関しては、特に憧れなど感じないし、むしろちょっと距離を置いたところからネタ的に楽しんでいる節もある。「日常におけるリアリティ」というよりは、「ファンタジー作品の設定」として受け止めているというほうが近い。ファンタジーの中にはそのファンタジー内のリアリティというものがある。

フィクションの場合、単に今どきの日常における「あるある」を並べれば、そこにリアリティが生まれるというわけではない。独特な世界観を持つ作品内に下手に日常のリアルを持ち込めば、たとえば水戸黄門スマホに映った印籠をかざすような珍妙なことになる。言うまでもないがリアリティというのは、「作中の表現が現代人の趣味嗜好と一致しているかどうか」というだけの基準で判断されるべきものではない。

リアリティとは、現代の日常生活に照らし合わせて判断するようなその場しのぎのものではなく、もっと普遍的なものだ。司馬遼太郎歴史小説を読んでリアリティを感じるのは、我々が戦国時代を生きているからではない。『魔女の宅急便』を面白いと感じたとしたら、それは身近に魔女の友達がいるからではないだろう。リアリティとは時代や状況を越えて伝わってくる本質的な何かであって、個人の趣味嗜好やその時代の流行といった表面的なものの映し鏡ではない。

そもそもフィクションが、現代社会というちっぽけな一点をバカ正直に反映してみせる必要もない。フィクションには本来、軽々と「現代社会」という窮屈な枠組みを越える力がある。いま現在の自分を取り囲んでいる趣味的な領域内であらゆる物事の良し悪しを判断するのは簡単だが、それは最も狭く、脆弱な判断基準にしかならない。世の中には、「わからないけど面白い」という作品がいくらでもあるのだから。

とかく最近は、「好き嫌い至上主義」がいつの間にやら蔓延していて、受け手が作品に対して抱く「好悪」と作品自体のクオリティとしての「良し悪し」が混同されることが多い。わかりやすく言えば、前者を「主観的評価」、後者を「客観的評価」と言ってしまいたいところだが、もちろんことはそう単純ではない。個人が判断する以上、純粋な意味での客観的評価などあり得ないわけで、厳密に言えば両者ともに「主観」でしかあり得ない。

しかし作品の「好き嫌い」と「良し悪し」は間違いなく別物であり、さらに言えば「好き嫌い」と「面白いか面白くないか」もまた別物である。むしろ本当の意味で「メジャーになる」ということは、単なる好みでついてくる信者的なファンだけではなく、趣味嗜好のまったく合わない層まで取り込んでいくということなのかもしれない。それが結果的なものであるにせよ、最初から狙ったものであるにせよ。

この『騎士団長殺し』という計1000ページ超の大作(いや『1Q84』の時のように、もしかするとさらに第3部もあるのかもしれないが)を読んでいて改めて感じたのは、そういった趣味嗜好を書き込んだディテールの部分ではなく、むしろ村上春樹が構築する「物語」という枠組みの大きな力である。

ここには、先に触れたような個人の趣味嗜好や価値観の差異をものともしない、抗いようのない吸引力がある。その強引なまでの吸引力は、人によっては不快であると感じられるかもしれない。それは「充実した内容」というよりは、一種の「カマし」や「ほのめかし」、もっと言ってしまえば「こけおどし」のように見えるものでもあるから。

今作におけるそういった物語の吸引力は、主にこの先起こるであろう出来事の結果を事前通告する「ほのめかし」の手法によって生まれている。そしてその「ほのめかし」の強度が、読者をそのエピソードの終わりまで確実に引っ張ってゆく。たとえば物語序盤の85ページに、こんな予言的な一節が早くも登場する。

そのときは、その人物がほどなく私の人生に入り込んできて、私の歩む道筋を大きく変えてしまうことになろうとは、もちろん想像もしなかった。彼がいなければこれほどいろんな出来事が私の身に降りかかることはなかったはずだし、またそれと同時にもし彼がいなかったら、あるいは私は暗闇の中で人知れず命を落としていたかもしれないのだ。

もはやネタバレどころの騒ぎではなく、ストーリー序盤でもう物語全体の大筋を全部言ってしまっているのである。これはもう明らかに「ほのめかし」の域を遥かに越えてしまっていると言ってもいい。さすがにここまであからさまに「ほのめかせ」ば、先が気にならないはずがないではないか。

と同時に、この壮大な「ほのめかし」により、「意外な物語展開で驚かす」というオーソドックスな手法が使用不可能になると思われる。それは物語作者にとって、大きなハンデキャップになるはずだ。しかし村上春樹は、あえて事前にゴールをちらつかせることにより、読者がその視野に捉えた目的地へ向けて自発的に走り出すことを優先する。

しかしそれは、作者が「意外な展開」を完全放棄することを意味しない。彼は大枠の展開について「ほのめかし」た上で、その行間で様々な展開を試みる。ゴールはあらかじめ見えていても、そこまでの道のりの自由度が高ければ問題はないと考えている。

さらに言ってしまえば、そもそも冒頭に設置されているプロローグ自体が、もう「全部言っちゃってる」というか、ほとんどこの作品の結論といってもいいくらいの「ほのめかし」の極致なのだが。

そして一方ではまた、そんな壮大な「ほのめかし」の代償として、いつもの如く物語が「竜頭蛇尾」に陥りがちであるのもまた否めない。事前に大きく振りかぶったぶん、提示された謎に対する読者の期待は高まるだけ高まってしまい、とどまるところを知らないそのわがままな期待感は、ラストに至るころにはどのような回答を提示されても満足できないレベルにまで達してしまっている。

これは明らかに「ほのめかし」的手法の弊害であるが、一方でまたその「ほのめかし」による強大な推進力のおかげで読者は物語の最後までなんとか走りきれる、というのも事実だろう。

実際のところ、僕がいつも村上春樹作品に感じる不満はまさにこの「竜頭蛇尾」な傾向で、それは以前『1Q84』のレビューでも触れたはずだが、今回は少なくともいつもよりは読者として気持ちよく最後まで走りきれた気がしている。

しかしそれは、後半の内容がいつもより充実していたというわけでも、提示された謎に対する作者の対応がすっかり腑に落ちたというわけでもない。謎は相変わらずフワッと宙づりにされたままだし、最初から答えを提示するつもりがない作者のスタンスはいつもと変わりない。そこに差があるとすれば、むしろ前半に濫発される「ほのめかし」の力が、いつも以上に強大かつその「程度」が絶妙だったということになるだろうか。

その圧倒的な吸引力が物語の推進力となり、さすがに後半ややテンションは落ちるものの、最後まで読み通させるだけの緊張感は保たれている。いつもならばもっとあら探しをしたくなるところだが、今回は物語の疾走感に気持ちよく身をまかせることができた。

作品というのは不思議なもので、それがつまらなければ読者は細部のあら探しに明け暮れることになるが、全体として面白ければ細かな瑕疵はあまり気にならない。いや気になるとしても、その傷もひっくるめて全体の面白さにつながっていると考える。

『騎士団長殺し』は、端的に言って面白かった。相変わらず趣味嗜好は合わないが、それでも面白いと感じる気持ちに嘘はつけない。


騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

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騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

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