泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

     〈当ブログは一部アフィリエイト広告を利用しています〉

短篇小説「河童の一日 其ノ十」

f:id:arsenal4:20160830214136j:plain

河童は冬が苦手だ。というと「いつも裸で寒いから」と思われがちだが、そこは慣れでなんとかなる。近年ではヒートテックの甲羅も、すっかり普及してきたし。

だから本当の問題は乾燥のほうだ。河童は乾くと急激に弱体化する生物である。特に頭部に載っかったヘッドソーサーの乾きは致命傷になる。

人間は転んで頭を打って死亡した際などに、よく「打ちどころが悪くて」という表現を使うが、河童の場合は「乾きどころが悪くて」天に召されることが頻繁にある。つまり冬場の乾燥は、僕ら河童にとって殺人的ですらある。いや殺河童的か。

何はなくとも保湿、保湿である。「保湿こそ我が人生」と言っても過言ではない。しかし僕は残念ながら、生まれながらの乾燥肌。河童の乾燥肌など皮肉にもほどがあるが、それでも保湿、保湿でなんとか今日まで生きてきた。あ、いま思ったけど「河童の乾燥肌」って、なんだかことわざっぽいよね。でも乾いたら本当に死んじゃうよね。

というわけで毎年冬場には皮膚科へ通うことになるのだが、近所の行きつけの皮膚科が先日潰れて僕は途方に暮れた。しかし途方に暮れ続けていると河童は死んでしまう(人間もそうだろうか?)ので、今日は別の皮膚科に行ってみることにした。

前の病院で処方してもらっていた「いい感じの保湿クリーム」がすっかり切れてしまったため、今日はなんとしてもそれと同等に「いい感じの」をもらわなければならない。もちろん、初めて行く病院に嫌な予感はしていた。

自宅から2番目に近い、いや、前通ってた皮膚科が潰れた今となってはもっとも近いその皮膚科の名は、「いぬい皮膚科」という。学校からの帰り道、ちょっと遠回りして、僕はいぬい皮膚科の待合室にいた。

窓口で初診受付を済ませ、待合室で診察を待つ間、いつもながら目のやり場に困った僕は、壁に額装された医師免許証を漠然と眺めていた。するとその冒頭部に、河童の敵である「乾」という漢字をなぜだか見つけたような気がして、いったんは目をそらした医師免許証を二度見した。

するとその恐るべき漢字は、あろうことか二個に増えていた! いや二度見たから二個になったのではなく、最初から二個書いてあったのだろうが、そのいかめしい文字の並びに、河童である僕は慄然としたのだった。

そもそも病院名を認識した時点で、気づかなかった僕が浅はかであったという他ない。「いぬい皮膚科」の「いぬい」は、多くの場合漢字で「乾」と書くに決まっているのだ。それを、そのひらがなの並びから来る「犬っぽさ」や「ぬ」の珍妙な字面、さらには上から読んでも下から読んでも「いぬい」になるというチャーミングな回文感に惑わされ、のこのこと不吉な領域に足を踏み入れてしまったのだった。

しかもその医師免許証に書かれていた院長の名前は、「乾 乾次」。なるほど、きっと次男なのだろう……などと呑気に考えている場合ではなくて、「乾」の字が二文字続く名前など、河童にとってはもはや暴力以外の何ものでもない。これはもはやとんでもない「ドライ・ハラスメント」であり、絶対に仲良くなれる気がしないのである。

そんな憤りを抱えたまま5分ほど待ち、名前を呼ばれ診察室に入ると、中年の男性医師が椅子ごとクルリとこちらを向いた。胸のネームプレートには、「乾 乾次」と書いてある。院長だ。

とはいえ、ここで呪われた名前ごときに怖じ気づいている場合ではない。こちとら、どうしても「いい感じの保湿クリーム」が入り用なのである。僕は謙虚に、自分が乾燥肌であること、特にヘッドソーサー部分の乾燥によるひび割れが致命傷になることを伝えた。しかしそれに対する乾先生のリアクションは、驚くべきものだった。

「いやウチ、皮膚科だからねえ」

僕が呆気にとられていると、乾先生は続けた。

「お皿は、皮膚じゃないよねえ。普通に考えれば」

僕は自分の脳内で巻き起こる混乱を懸命に収拾して、あえて落ち着き払ったトーンを装って訊ねた。

「では皮膚でないとしたら、いったいなんなんでしょうか?」

「まあ皿だから、いちおう瀬戸物なんじゃない? 知らんけど。治療っていうより修理だよね、修理」

「いや、でも前に他の皮膚科で出してもらった保湿クリームが効くんですよ。皮膚用の」

「あっそ、じゃあ唾でもつけときゃ治ると思うよ。まあ欲しけりゃ出すけど、クリーム。いる?」

「……ください」

最寄りの薬局で処方箋を提示し、凡庸な保湿クリームを受け取った帰り道、僕は無意識のうちにふらりと瀬戸物屋へ足を踏み入れ、安っぽい柄の入った様々なお皿を、片っ端から手にとって見ていた。もちろん買う気も、ましてや装着する気など一切ありはしない。

むしろ店じゅうの皿という皿をことごとく割ってやりたい、ついでに自分のヘッドソーサーすらも、という謎の破壊衝動に駆られたが、「河童、皿を割る」という翌日のスポーツ新聞の見出しが頭に思い浮かんで、僕はそのままとぼとぼと帰路。



乾きの名曲。つまり河童の鎮魂歌。


tmykinoue.hatenablog.com

悪戯短篇小説「河童の一日 其ノ八」 - 泣きながら一気に書きました
悪戯短篇小説「河童の一日 其ノ七」 - 泣きながら一気に書きました
悪戯短篇小説「河童の一日 其ノ六〜河童vs家電量販店〜」 - 泣きながら一気に書きました
悪戯短篇小説「河童の一日 其ノ五」 - 泣きながら一気に書きました
悪戯短篇小説「河童の一日 其ノ四」 - 泣きながら一気に書きました
悪戯短篇小説「河童の一日 其ノ三」 - 泣きながら一気に書きました
悪戯短篇小説「河童の一日 其ノ二」 - 泣きながら一気に書きました

tmykinoue.hatenablog.com

我が憧れの「ナッツ・リターン」~『新語流行語大賞2016』発表を待たずに~

f:id:arsenal4:20161201133650j:plain

本日17時、今年の新語流行語大賞が決まるらしい。だがそんなことはどうでもいい。今年も勝手に恒例にしている「新語流行語大賞全部入り小説」を書きながら、「なんで『ナッツ・リターン』が入ってないんだ!」と憤っていたことを思い出したからだ。

しかし調べてみたら、「ナッツ・リターン」はちょうど2年前(2014年末)の話だったらしい。調べないほうが良いこともある。検索文化は夢を壊す文化でもある。どうも体内時計が年単位で馬鹿になってきているようだ。

しかし本当にマズいのは、むしろ今さら「ナッツ・リターン」という言葉を発したくて仕方なくなっていることのほうかもしれない。とにかく言いたいし、できればやりたいとさえ思っている。

いや誤解しないでほしいのだが、本当にあれをやりたいと思っているわけではない。あのナッツ姫の「ナッツ・リターン」ではなくて、僕は僕の「ナッツ・リターン」をやりたいのである。

伝わらないだろうか。しかし僕が僕だけの「ナッツ・リターン」をやるには、まず「ナッツ・リターンとは何か?」という問いから初めなければならない。世界に一つだけの「マイ・ナッツ・リターン」を手に入れるために。

そもそもナッツ姫の「ナッツ・リターン」には「ナッツ感」が全然足りないと、僕はずっと感じていた。なぜならば「リターン」したのは「ナッツ」ではなく「飛行機」のほうだからである。

大仰に「ナッツ・リターン」などと言いながら、「リターン」という動作の主語が、その直前に唯一置かれた単語であるところの「ナッツ」でないというのは熟語としてどうにも脆弱で、誠実さに欠ける。ナッツは単なる動作のきっかけに過ぎない。

そこで僕は、もっと強い「ナッツ・リターン」がしたいと思った。欲しいのは、「ナッツ」が直に「リターン」する感触だ。そう、「ナッツ・リターン」の主役は、当然「ナッツ」であるべきなのだ。「キッズ・リターン」の主役が、もちろん「キッズ」であるように。

話は変わるが、「柿ピー」という食べ物がある。ご存じ、柿の種とピーナッツがごちゃ混ぜになったお菓子である。普段ならばこれを、柿の種とピーナッツを均等に消費するように、気をつけて食べる。

しかし僕はこれを、今後誰かに「食べる?」とすすめられ、ひと袋渡されたたときには必ず、柿の種だけを丹念に全部食べ尽くし、ナッツだけが残った袋を相手に返してやろうといま心に誓った。

「喰らえ、ナッツ・リターン!」と、胸の内で密かに叫びながら。そう、これが僕の「ナッツ・リターン」だ。

ナッツが、持ち主のもとへ、帰ってゆく。こんなに完璧な「ナッツ・リターン」が、他にあるだろうか。単にナッツ・アレルギーだと思われる可能性。

そして「ナッツ・リターン」は、きっと人の数だけある。皆さんも、どうか自分らしい「マイ・ナッツ・リターン」を見つけてほしい。

とはいえ霊長類最強の「ナッツ・リターン」が「木の実ナナ、実家へ帰る」であることに疑いはなく、すでに殿堂入りが決定しているという。


【追記】
例によって妄想上のオチをつけたつもりが、このような事実を発見。
コンサート・タイトルは《木の実ナナコンサート SHOW GIRL @HOME リターンズ》
まさに「ナッツ・リターン」!

natalie.mu


tmykinoue.hatenablog.com

tmykinoue.hatenablog.com

谷貝食品工業 大次郎柿ピー2.4kg

谷貝食品工業 大次郎柿ピー2.4kg

短篇小説「柿食えば鐘鳴る機」

f:id:arsenal4:20161129021407j:plain

「こないだ寺で柿食ってたらさ、ちょうど鐘が鳴ったんだよね」

政尾加志貴(まさお・かしき)が自慢の横顔を見せつけながら得意気にそう言うと、友人らは「ま、そういうことってあるよね」と軽く受け流したので、加志貴は意地になって、

「……てゆうことが今年三回もあってさ!」

と慌ててつけ加えたのだった。もちろん、口から出まかせである。そもそも普通に生きていて、年に三度も寺で柿を食う機会などあるものではない。喫茶店に集っていた三名の友人らは、その発言に驚くどころか「嘘つけ!」と一笑に付した。二回分の嘘を盛ったお陰で、真実の一回目すらも虚言であると断じられてしまったのである。

加志貴はその日から嘘つき扱いされ、「ホラッチョ」と呼ばれることになった。学生時代のショーンKと同じあだ名だ。

加志貴は悔しかった。だから柿を食えば必ず鐘の鳴る機械を作ってやろうと思った。そして実際に作った。器用な男だった。

胸元につけたリモコンが、柿を囓ったときに飛び散る成分(タンニン等)を感知。するとそこから寺の鐘を突く撞木をくり抜いて内蔵されたレシーバーへと電波が飛び、自動的に鐘を打つというシステムである。その電波は、鐘の音が明瞭に聞こえる地域全体をカバーしている。

むろん寺の許可は取っていないので、加志貴は夜中に何度も寺に忍び込んでは撞木に手を加え、送受信実験を繰り返した。胸元のリモコンに柿の成分を感知させねばならないため、あえてワイルドに汁を飛び散らす柿の食いかたも、ずいぶんと上手くなった。

「柿食えば鐘鳴る機」が完成した翌日、加志貴は彼を嘲笑った三名の友人を寺の門前に呼び出した。彼は懐から柿を取りだして言った。

「いいか、俺が柿を食えば鐘は必ず鳴るんだ。俺がために鐘は鳴る。見とけ!」

加志貴は柿を勢いよく囓った。するとその0.7秒後に鐘が鳴った。友人らは期待どおり驚きの表情を見せた。

「やったぞ。俺はやってやった!」

だが加志貴がそうやって成功に酔っていられたのは束の間だった。鐘は何度も何度も繰り返し鳴った。そんなはずはないのだ。鐘は一度だけ鳴るようにプログラミングされている。しかもその鐘の音はいつもの「ゴーン」という低音ではなく、「カーンカーン」と不快に響く聴き慣れぬ高音であった。

何かがおかしい。俺以外にも柿を食っている奴が近くにいるのか? しかし俺以外に、こんな馬鹿げた機械を発明する奴などいるはずもない。

加志貴はあれこれと思案を巡らせながら、いつしかこの鐘が早く鳴り止んでほしいと願っていた。友人らはいつの間にやら雲散霧消していた。それは単なる鐘ではなく、早鐘だった。近隣住民に危機を知らせる早鐘だった。

やがて鐘の音は、青空を埋め尽くす米軍機のエンジン音に掻き消された。


tmykinoue.hatenablog.com

Copyright © 2008 泣きながら一気に書きました All Rights Reserved.