泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

     〈当ブログは一部アフィリエイト広告を利用しています〉

パチモンGO~『ポケモンGO』便乗没企画すぐやらない課~

f:id:arsenal4:20160723212440j:plain

ポケモンGO』が日本でも配信され誰もが狩りに興じている。今ごろあらゆる会社がこの流れに便乗しようと、おっとり刀で動き出しているに違いない。そもそも『ポケモンGO』とは基本的に、『イングレス』というすでにあった「位置ゲー」のシステムに、ポケモンのキャラクターを載っけたもの。つまりウィッグ的あと載せサクサク感覚でトッピングさえ変えれば、なんでもかんでもGOさせることができるはずである。

2次元にしろ3次元にしろ、キャッチーなキャラクターを抱えている企業にとっては、それを大きく転がすチャンスである。漫画やアニメキャラはもちろん、AKBや吉本あたりも乗ってくるであろうことは想像に難くない。特に「会いに行けるアイドル」を標榜するAKBなんてまさにコンセプト通りで、格好の「載せもの」なのではないか。

少なくとも、パチンコに参入してきた類のキャラクター周辺はすべて可能性があると見て良い。あとコーエーの『無双』系もなんでもかんでも載せたがる。

個人的には、欧州のサッカー選手が「GO」されたらプレイしてしまいそうだが、だとすると日本の街角にヨーロッパのサッカー選手が佇んでいる意味が全然わからない。
「あれ? 自動改札で挟まれてるのメッシじゃない?」
「コンビニの前にしゃがんでカップ麺食ってる不良、よく見たらポグバだろ」
みたいなことになって、もはやサッカーとか全然関係ない。でもたぶんやるとは思う。

そんな感じで考えついたさまざまな「くくり」による『ポケモンGO』便乗ゲームを、総称して『パチモンGO』と呼ぶことにする。個人的には戦国武将が好きなので、武将ものはぜひ作っていただきたい。歴史ゲームといえばコーエーだが、『信長の野望』はポケモンとの悪名高きコラボ実績もある(DS『ポケモン+ノブナガの野望』)ので、『信長GO』はわりと可能性が高いかもしれない。

となればせっかくなので、各武将をきっちり関連性の高い場所に配置してもらいたい。かつての領国はもちろんのこと、織田信長は本能寺に、石田三成は京都の六条河原に、今川義元桶狭間に……と、なぜか討たれた場所ばかりにボワ~ンと浮かび上がる仕様。もはや「モンスター」というよりは「地縛霊」であり、やってることは『ポケモン』というよりすっかり『妖怪ウォッチ』である。

他にも、『石原軍団GO』で舘ひろしをどこの警察署(もしくは自動車教習所)に配置すべきかとか、『渡鬼GO』におけるえなりかずきの置き場所など、制作者が考えるべきことは山ほどある。そして様々なGOの先には、ただ無目的にキャラクターを捕まえるだけでもあれなんで、どうせならばちゃんと捕まえる必要のある人、つまり『犯罪者GO』を作ってついでに世直しもしてしまおう、なんて一石二鳥プランが立ち上がってもおかしくない。大変な世の中になった。

とりあえず、全国各地に棲息する様々なひろみを捕まえる『ひろみGO』をダウンロードして遊びたいけど遊ばない。ジャケットを無意味に激しく着脱しつつ。

悪戯短篇小説「出かけない三郎」

f:id:arsenal4:20160721151732j:plain

三郎はとにかく出かけない。一郎と二郎はむしろ頻繁に出かけるほうだが三郎はわざわざ出かけたりしない。

晴れの日も出かけないが雨の日はさらに出かけない。雪の日に出かけるのは、特に雪が好きだからではなく、三郎が「俺は晴れの日も、雨の日も、曇りの日も、風の日も出かけたりしない」と小学校(通信制)の卒業文集に宣言してしまったからだ。雪の日を書き忘れた。

もちろん雹の日も、滅多にないが書き忘れた以上出かけなくてはならない。台風の日は雨か風のどちらかが必ず含まれるため出かけなくて良い。

雨が夜ふけ過ぎに雪へと変わったら、三郎はすぐに出かけなければならない。みぞれだろうとあられだろうと、卒業文集に書いていないのだから出かけなければならないことに変わりはない。

三郎は雪がすごく好きな人だと思われている。少なくとも母親はそう考えている。朝食に雪見だいふくが出てきたときにそれを確信した。三郎はとにかく出かけないだけで引きこもりではないので、天候にかかわらず家の中を自由に歩き回ることができるし家族と食事もする。そして雪の日には出かける。特に心を閉ざしている様子もない。

窓の外に粉雪がちらつき始めた。その雪は窓の対角線を斜めに切り取っている。つまり横なぐりの雪であり、それは風が強いことを意味する。今日はいったい雪の日なのか、風の日なのか? 雪よりも風のほうが強いと判断されれば、雪の日ではなく風の日と認定されるため出かけなくて良いのだが。三郎は人生の正念場に立たされている。

短篇小説「河童の一日 其ノ八」

f:id:arsenal4:20151015001947j:plain

夏が来た。河童だって流れるプールが好きだ。

今日は茨城から泳いできた爺ちゃんと、遊園地のプールへ行った。遊園地へ行くと必ず子供たちが寄ってくるけど、握手をしてあげると皆あっさり引き下がってくれるので問題はない。手が思いのほかビチョビチョだからである。奴らは逃げると追いかけてくるが、握手してやると蜘蛛の子を散らしたように離れてゆく。この逆説は河童の人生、いや童生(ぱせい)を見事に象徴している。追いかけて何かを手に入れることなど、とてもできそうにない。

遊園地には3つの特大プールがある。一番人気はやはりウォータースライダーのあるプールだが、あれは河童の処刑台にそっくり、というか完全にパクッているので絶対に行きたくない。河童の死刑囚は、高いところから流し流され、うねりうねって血の池地獄に落とされることになっている。ちなみに流しそうめんも、同じ理由から大の苦手である。あのような公開処刑装置で喜んでいる人間は、本当に趣味が悪いと思う。

僕と爺ちゃんは、流れるプールへ行った。河童だからといって、特別な楽しみ方があるわけではない。ただ流されているだけで楽しいのが、流れるプールの唯一最大の魅力だ。

しかし一方で、ただ流されているだけでも笑われてしまうのが河童の運命だ。ここは「運命」と書いて「さだめ」と読んでもらいたい。今日も流されているだけで、多くの人に笑われた。それもこれも「河童の川流れ」などという、河童をディスることわざを作った輩のせいだ。

当然だが、河童だって意図的に流されることはある。川の流れと自らが目標とする進行方向が同じならば、わざわざ泳ぐ必要などなく、ただ流されれば良いのである。人間が下り坂で自転車をわざわざ漕がないのと同じことだ。それは苦しくも恥ずかしくもなく、むしろ気持ちの良いことであって、だから河童も流れるプールを楽しみに来る。

にもかかわらず、「流されている河童」はあのことわざのせいで終始嘲笑されるのである。こちらはすっかりリラックスして流れに身を任せる快感を味わっているのに、それを溺れていると判断されてしまう。

そしてさらに不可解なのは、百歩譲って河童が目の前で溺れているとして、なぜそれを見て人間が爆笑できるのかという点である。流される河童を前に、誰ひとり助けに来る者はおらず(いやそもそも溺れていないので助ける必要などないのだが)、それどころか心配や同情の表情を浮かべる者すらいない。この瀕死の状態をあざ笑われる哀しみ(いやだから瀕死ではないのだが)は、人間にはどうしてもわかってもらえないのだろうか。

――などと思いながらもそれなりに呑気に流されていると、マッチョなライフセーバーが飛び込んできて今日だけで5回も助けられる、という憂き目に遭った。こうなると助けるというよりも、もはやスポーツフィッシングでありキャッチ&リリースである。溺れていないのに助けられるほど迷惑なことはない。そんなにクソ真面目だから筋肉ばかりつくのだ。

無駄に助けられるくらいなら笑われたほうがマシだ。そんなことを考えながら着替えを済ませたところで、一緒にいたはずの爺ちゃんがいないことに気づいた。そういえばキャッチ&リリースされたのは僕だけで、爺ちゃんはコンスタントに流され続けていた。プールへ引き返すと、爺ちゃんがただひとり流れの止まった水面に浮かんでいた。驚いて駆け寄ると「先に帰っとき」と言われた。

「なんだ生きてんじゃん」と胸を撫でおろして真っすぐ帰ると、玄関でお母さんに「あら、遅かったわね」と言われた。そんなに遅くないのになんでかな、と思って訊くと、爺ちゃんはもうとっくに帰宅して風呂に浸かっているという。爺ちゃんは謎が多い。

Copyright © 2008 泣きながら一気に書きました All Rights Reserved.